科学及び哲学における“無”について

<無>の解釈は、科学の営みを哲学の問題圏に接続するか? という雑談。
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四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

ディスカバリーチャンネルを観ていたら、理論物理学者がビックバン理論を受け入れるためには、古代ギリシャ哲学者のいうことに反して「無からの有」を受けいらなくてはいけないと言っていた。ビックバンにおいてはこれを受け入れるが、「この宇宙」では受け入れられないと考えているようである。

2011-05-27 13:19:01
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

なぜビックバンにおいては「無からの有」が認められ、この宇宙においては「無からの有」は観測しえないのか。なぜここに不均衡が存在するのか。これに理論物理学はまったく答えられないだろう。

2011-05-27 13:21:18
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

もしこの宇宙のどこかで、ビックバンを生じさせた「無からの有」が日々刻々と生じているとしたら、その時物理学はどうなるであろうか。人間が作り出したただの神話になるだろう。

2011-05-27 13:26:09
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

つまり、わたしはビックバンなどというものを腹のそこから疑っているのである。

2011-05-27 13:29:53
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

ビックバンだとかなんだとかで、人類はどれだけの血税をつぎ込んできたのであろうか。偉い人々がやってるのではなく、ある種のカルト集団がやっている研究ではないか。暗澹たる思いである。

2011-05-27 13:41:43
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

ビックバンへの反論ですね。興味深い。おそらく物理学界にもビックバン利権なるものがあるのでしょうwwRT @agyrtria: 仮説にしても無理ないか?というのが、この辺で分かりますな http://bit.ly/mp6cRo

2011-05-27 14:06:43
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

数学でも物理学でもそうですが、科学的思考というものは(似非科学を除いて)徹頭徹尾、閉じたものであり、哲学的懐疑の差し挟まれる余地は残されていないと思います。逆に、哲学の問いに関して科学から口を挟まれる謂れもないということですが。 @Boyakimasse

2011-05-27 16:50:32
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

宇宙物理学の想定する「無」は、哲学的に考えられるそれとは恐らく似ても似つかないもので、単にこの世界の内部で成立している物理法則をそのまま保存した状態で「宇宙」がまだない段階を想定して、そこから「宇宙」の成立を説明してゆくだけの代物ですね。 @Boyakimasse

2011-05-27 16:55:10
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

それはそれでよいのですよ。わたしが言いたいのは、原子力発電にせよカミオカンデにせよ、哲学的懐疑に耐えられない根拠で莫大な血税を使うな、ということです。宇宙の謎を解明するのになぜ税金を使うのか、自腹でシコシコやってなさい、ということです。@Taroupho

2011-05-27 17:02:31
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

「哲学的懐疑に耐えうる」という条件設定は、少々強過ぎますね。恐らくは、とりあえず科学者に投資しておけば何か物にして社会に返してくれる、という事実が経験的に知られているので、そうした制度設計になっているのだと思いますが。 @Boyakimasse

2011-05-27 17:08:42
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

確かに。納税者は強く言うべきなのですよww RT @Taroupho: 「哲学的懐疑に耐えうる」という条件設定は、少々強過ぎますね。恐らくは、とりあえず科学者に投資しておけば何か物にして社会に返してくれる、という事実が経験的に知られているので、そうした制度設計になっているの

2011-05-27 17:10:44
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

「無」についてですがね、哲学的にだろうが、科学的だろうが、「無」は解釈を拒む「思考し得ない何か」として同じ重さで扱われていると思いますよ。確かに哲学と科学は相入れないくらい閉じたものになりましたが、「無」は両者に辛うじて跨る結節点ではないか、そう思います。@Taroupho

2011-05-27 17:19:29
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

なぜ、有るものがあって、無ではないのか。

2011-05-27 17:25:01
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

まず大前提として、物理学は「解釈」しないと思います(物理学「者」は解釈することがありますが、それは信仰告白と同程度のものでしかないかと)。現代宇宙物理学は宇宙誕生以前の「無」を云々することもありますが、それも精々量子論の枠組みに従ってのことですね。 @Boyakimasse

2011-05-27 17:40:48
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

それは意見を異にしますね。自信を持って言えることではないですが、物理学もひとつの解釈だと思いますよ。「科学的」というとなんですが、やっぱり解釈にすぎないと思います。だから「無」は解釈から要請されているものにすぎない、と言われているならわかりますが。@Taroupho

2011-05-27 17:47:51
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

解釈とはもちろん、個人的解釈のレベルではなく、言語によって表現為れて他者と共有されるレベルでの解釈という意味です。

2011-05-27 17:50:29
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

ここからは哲学的な話になりますが、当方の見解としては、科学は或る絶対的な意味で「解釈」なのだと思います。しかし、その解釈が余りに絶対的なので、その枠組みの内部においては(相対的には)解釈していない様に見える。哲学は、なおその外部を考えようとするのですね。 @Boyakimasse

2011-05-27 18:03:37
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

ですから、物理学が哲学と接続する局面をもし考えられるとすれば、それは絶対的な意味における「解釈」の枠組み全体に対する無根拠性の自覚、という点にしか求められないと思います。それは少なくとも、「無」などという字面上の一致を超えた地点の話なのだと思うのです。 @Boyakimasse

2011-05-27 18:08:29
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

なるほど、あくまで論理形式的にご覧になっているのですね。わたしは論理形式的になればなるほど隠蔽されてしまう「なにか」について語っているのです。上手く言えませんが、論理をドライブさせる「なにか」について。「無」とはそのようなものではないでしょうか。@Taroupho

2011-05-27 21:56:44
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

「有」を思考することは「無」を思考すること、「無」を思考せざるを得ないはずである、という感触をわたしは語りたかっただけです。それは哲学でも科学でもおよそ思考することに共通するということです。@Taroupho

2011-05-27 22:00:27
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

「無」というのは思考にとって純然たる他者である。だから思考することには必ず他者を要するというのは真実なのである。

2011-05-27 22:09:04
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

多分、言葉遣いはかなり違いますが、言おうとしている事柄に関しては、お互いそれほど相異してはいないのではないか、という感触を持ちました。ただ、やはり哲学はそれなりに独特の営為だと思いますので、その点は差し引いて考えた方がいいのではないか、とも感じますねー。 @Boyakimasse

2011-05-27 22:20:31
四谷(YOTSUYA) @Boyakimasse

相手が何であれ、ひるまないのが哲学ですよww 神を相手にするのですからね!ww RT @Taroupho: ただ、やはり哲学はそれなりに独特の営為だと思いますので、その点は差し引いて考えた方がいいのではないか、とも感じますねー。

2011-05-27 22:27:21