城・攻城戦(日本)

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ストライクフォース @kamaeatte

またこの中で現代語訳として引用されている吉川経実の書上からは城攻めの実態がわかるようで興味深い。ここでは堀へ一番に入る、塀に付いて「内よりの鑓」を取る、名乗りを上げる、「内よりの鐵炮」を取る、尺木(柵)を切る、塀に付いて一番に(城内に)入る等の行為が武功として列記されている。 pic.twitter.com/4A9CejkH3m

2022-02-01 19:46:15
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ストライクフォース @kamaeatte

そういえば、宮本武蔵にも狭間から突き出された槍を奪い取る逸話があった。寄せ手が城に肉薄して城内から突き出された鑓や鉄砲を奪い取ることは盛んに行われていたのかもしれない。

2022-02-01 19:49:33
ストライクフォース @kamaeatte

横山山城守家士武功書に、天正十七年(1589)の前田利家軍による松井田城攻めについて「長殿・石見殿をして丸壱ツ御取被成候、其丸を取堅兼申候処、拙者罷出、一番ニ竹たは付申ニ付、其丸取堅申候」とある。曲輪を乗っ取った後、竹束を設置して他の曲輪の攻略のための足がかりとした様子がうかがえる。

2022-03-13 20:18:29
ストライクフォース @kamaeatte

竹束を設置するまでは「取堅兼申候」だったわけだから、隣接する他の曲輪から激しい銃撃に晒されていたのだろう。このときの松井田城のようによく守られた堅固な城は、曲輪一つ一つを地道に攻略していく必要があったと思われる。 あ、齋藤慎一編「城館と中世史料」で抜粋を読んだだけです。念のため

2022-03-13 20:19:01
ストライクフォース @kamaeatte

「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」によると、福山城伏見櫓や彦根城太鼓門のような古い城郭建築では格子窓の窓台の位置が低く、これは弓矢で下方を狙うための仕様と考えられるという。つまり時代が下ると格子窓の位置が高くなるのは、鉄砲の配備率の向上と弓の減少を反映しているということだろうか。 pic.twitter.com/y3c9zWvcD9

2022-06-14 18:28:59
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ストライクフォース @kamaeatte

同じような話で、櫓門の格子窓から弓を射る場合は左側の方が狙いやすいため、枡形虎口は敵兵が(射手から見て)左側から侵入してくる右折れがよい、という話もある。左手で弓を握って突き出した際、右側を射ようとすると隙間の右側の格子が狙いをつける右目の視覚に入ってしまい狙いにくいからだとか。 twitter.com/kamaeatte/stat…

2022-07-07 18:32:30
ストライクフォース @kamaeatte

似たような軍学の話で「左袖」というのもある。虎口の前の土橋に横矢をかけるために、城内から見て左側に塁線を突出させるというものだが、こうすると左向き半身に弓を構える射手は比較的矢を射やすいのだという。 pic.twitter.com/bT84KZ6GZR twitter.com/kamaeatte/stat…

2022-01-19 18:06:47
ストライクフォース @kamaeatte

いまいち実感が湧かないが、このあたりは実際に櫓門の格子窓の前で弓を構えてみないことには何とも言えない(いけません)。しかし、そもそも狭い枡形内を近距離から射るときにそこまで狙いをつける必要があるのだろうか。多少不正確でも矢継ぎ早に射れば用は足せるように思う。(画像は日出城鬼門櫓) pic.twitter.com/kIajHW1N7c

2022-07-07 18:33:41
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ストライクフォース @kamaeatte

慶長の役で渡海大名たちは多くの石垣造りの織豊系城郭を築いており、築城大名と在番大名が異なる場合も多かった。伊達政宗は「上方衆に少しも劣らない石垣を築くことができた」と母宛ての書状で自慢していているが、こうした築城技術だけでなく、当然その織豊系城郭を使いこなす戦い方(ドクトリン)も

2023-01-08 11:51:50
ストライクフォース @kamaeatte

参戦大名の間で共有されていったことだろう。このような軍事技術の全国的な画一化への流れを加速させたという点で、朝鮮出兵は一大画期だったと思われる。

2023-01-08 11:52:17
ストライクフォース @kamaeatte

ただ、その後織豊系の近世城郭が必ずしも全国画一的に普及していったわけではなく、天守や枡形虎口等のパーツの部分的導入など、表層的な受容に留まる場合も少なくなかったことは木島孝之氏が指摘されていましたね

2023-01-08 11:53:17
T_Toki @toki1_ta

障害物を山ほど作って目標の到達を遅らせる和式城郭の「常識」と、遮蔽物のないだだっ広い空間をキルゾーンとして到達する前に殲滅する砲戦防衛。この間にあるギャップに気づかない限り「日本における稜堡式城郭」の真っ当な評価には届かないよなあ、というのが戸切地陣屋を追ってきた現時点での所感。

2023-05-31 18:07:28
旗代@5月5日:軍事革命論イベント開催 @Hatashirorz

>RT 中世日本の城郭と、近世ヨーロッパの城郭は根本思想が異なるなとは正直思いますよね。近世ヨーロッパの大規模な稜堡式城郭なんかだと空堀が逆襲部隊の待機場所や移動経路になっていて、一概に障害と言えないことが多いし、それが逆襲成功の決め手になっていたりして面白いなぁと思う。

2023-05-31 22:54:57
ストライクフォース @kamaeatte

「福岡城 築城から現代まで」によると、文政二年(1819)の時点で、福岡城本丸の武具櫓には藩祖以来の「御召具」のほか、御番弓388張、御直槍100、御番槍1175、熊手493、長柄鎌352、鳶口535、御番具足379、金甲213、三ツ具足757、革笠669、置筒92、抱大筒53、小筒1900等々が納められていたという。 pic.twitter.com/InYfCwqYWY

2023-06-02 19:48:29
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ストライクフォース @kamaeatte

熊手や長柄鎌等の恐らくは建造物破壊用の道具も多数用意されていたらしい。置筒は地面に台座等を設置してその上に据える大砲、小筒は普通の火縄銃のことだろう。「三ツ具足」とはどんな具足だろうか?他にも雑多な道具や鉄砲玉の数など詳細に載っているので、興味のある方は上記の本を読んでみてほしい

2023-06-02 19:49:34
ストライクフォース @kamaeatte

それにしても、これだけ大量の武具が収納されていたとすると櫓内は射手が弓鉄砲を放つ余裕などなかったのではないだろうか。二基の三重櫓を二重多聞櫓で連結する武具櫓は、防御縦深の浅い本丸南側をカバーする強化火点...みたいなことを以前書いたが、武具を運び出さないとそのようには使えそうにない

2023-06-02 20:04:46
ストライクフォース @kamaeatte

それから同じ本丸内の「天守櫓」には廃藩となった直方藩の武具が納められていて、甲冑としては御番具足35領、鎖具足50領、御旗具足26領、金甲50頭があったとか。鎖具足とはいわゆる畳み具足のことなのでしょうね twitter.com/kamaeatte/stat…

2023-06-02 20:18:41
ストライクフォース @kamaeatte

新陰流の軍学書「訓閲集」に「城、一方弱くこしらえたるは、捨て曲輪と心得べし。一重破らせて、引き寄せて打たんためと思え」とある。この「捨て曲輪」の実例としては彦根城の観音台が挙げられるだろうか(山崎口を突破した敵軍を山崎郭の拘束と西の丸からの逆襲で包囲殲滅)

2023-06-04 21:48:53
ストライクフォース @kamaeatte

新陰流の軍学書「訓閲集」の巻五「攻城・守城」に城攻めと籠城それぞれの心得が書かれているのだが、その中から面白かった箇所をいくつか紹介したい。スキージャーナル株式会社「上泉信綱伝 新陰流軍学訓閲集」を参考にした。 pic.twitter.com/4yk6z7o6SM

2023-06-08 19:18:36
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ストライクフォース @kamaeatte

この本で取り上げられている「訓閲集」は上泉信綱→疋田豊五郎→細川藩と伝わった系統という。内容的には江戸時代の他の軍学書と大差ないので、上泉信綱が伝えたそのままの書ではなく、細川藩に伝わるうちに内容がアップデートされていったものと思われる。

2023-06-08 19:26:53
ストライクフォース @kamaeatte

午後からの城攻めを避け、翌日早朝からにするというのは日照時間を最大限に利用するためだろう。城からの投石に使うと思われる石の具体的な大きさが書かれた記録は珍しいのではないだろうか。小さい物でも一人で二つ持てる程度というから、やはり近世城郭の石落からは落とせそうにない。

2023-06-08 19:27:47
ストライクフォース @kamaeatte

越前朝倉氏に相伝され、永禄年間までには成立していたといわれる築城指南書「築城記」。久しぶりに再読したが、大手に攻め寄せた敵に搦手から逆襲する、城外側に木は植えない、塁線の角の部分から敵が侵入しやすいから気をつける等のセオリーが実戦期に書かれた文献からも裏付けられるのは重要だと思う pic.twitter.com/T4iwiu8kuI

2023-06-23 20:18:59
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ストライクフォース @kamaeatte

この他にも多聞櫓や石落(ただし弓を射るためのもの)、屏風折土塀のようなものまで書かれていて面白い。近世城郭との連続性はなさそうだが、こうした発想は中世からすでにあったのだろう。逆に鑓用の横狭間など、近世城郭の時代にはなくなっていたものもある。

2023-06-23 20:20:38
ストライクフォース @kamaeatte

吉川弘文館「戦国の城攻めと忍び」を読んでいるが、その中で取り上げられている豊臣軍の八王子城攻めの様子が凄まじい。前田利家の軍勢では、横山山城守は塀際に迫って「矢きり」(矢を防ぐ楯あるいは忍び返しとのこと)を切り落として一番乗りを果たしたが膝頭を鑓で突かれて転落、母衣が石垣に→

2023-08-20 18:21:42
ストライクフォース @kamaeatte

埋まって行動不能。向七兵衛は塀に乗って名乗りを上げたが鉄砲で胸板を撃たれ負傷。山崎作右衛門も塀に乗ろうとしたところを撃たれ負傷。宇野平八、今井才右衛門、印牧次郎兵衛は「一番の丸多門」に一番乗りしようと「矢簾」(竹などの簾の楯?)を切り落としたところ3人とも敵の鑓で負傷、等。

2023-08-20 18:22:27
ストライクフォース @kamaeatte

矢玉や障害物をものともせず強襲していく様が見て取れる。やはり高石垣と広い水堀の組み合わせが普及した理由の一つには、このような強襲を完全に遮断する目的もあったのだろうと思わせる。

2023-08-20 18:22:47
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