城・攻城戦(日本)

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ストライクフォース @kamaeatte

「軍事分析 戦国の城」によれば、関ヶ原の戦い前後に伏見城や大津城、佐和山城といった従来の織豊系城郭が強大化を続ける攻城軍を前に次々と陥落したことで、それ以後の城郭には ①犠牲を度外視した歩兵の強襲 ②大鉄砲や大筒等の破壊火力の増大 ③対壕戦術 への対処が求められるようになったという

2021-07-11 09:19:42
ストライクフォース @kamaeatte

具体的には①に対しては巨大な堀と高石垣で歩兵を食い止めること、②には防御縦深を深くとって砲撃が届かないようにすること、③には堀を巨大化するとともに水堀化すること等で対処しようとし、名古屋城がこれらすべてを兼ね備えた(惣構は未完成に終わったが)究極の城郭として位置づけられるとか。

2021-07-11 09:20:18
ストライクフォース @kamaeatte

城郭が広く、高く、大きくなるのはしばしば権威の象徴とか抑止力などの視覚効果に結びつけて説明されるが、城はまずもって兵器であり、そうした変化も戦術的な要請から生じたと考えるのがより妥当だと思うし、何より一ミリオタとしてその方が楽しい。ああ名古屋城行きたい

2021-07-11 09:20:59
長門 @pzkw42

@kamaeatte 城郭を大きくすると守備兵力も相応に必要ですね 関ヶ原後に大封で入った外様のあとに小さな石高で入った譜代が守りきれない城も多かったかと (ただ譜代は他の譜代の支援を期待出来ますが)

2021-07-11 17:07:11
ストライクフォース @kamaeatte

長沼流の軍学書である「兵要録」や「兵要続録」には攻守城戦における各兵科の役割分担のようなものが書いてあり、近世城郭の防備を考える上で多少は参考になると思う。守城戦では「弓銃手二名は一箭眼を守り、銃頭及び甲士は銃手を助けて、女牆を防御す」とあり、狭間(箭眼)一つに弓鉄砲の足軽が二人

2020-06-15 19:36:26
ストライクフォース @kamaeatte

付いて射撃を行い、銃頭及び一般の武士は女牆(土塀だろう)を乗り越えてくる敵に対応するように読める。「大銃櫓牌を砕き、小銃隊伍を破る」ともあり、普通の火縄銃は敵兵を、大鉄砲の類は攻城具を狙うようだ。また「旗手及び鍬鋤の役夫、凡そ壮健の奴隷は、皆雉堞に附け、時に臨んで木石を投ず」と、

2020-06-15 19:36:40
ストライクフォース @kamaeatte

人夫の類も投石をする等して戦闘に参加するらしい。長柄足軽については「長鎗は之を牙帳の前に列し、以って歩卒の要用に備ふ」とある。本陣に控え、歩卒(徒歩武者か?)が城外へ逆襲したり、城内に浸入した敵兵に対処する際にそれを支援するのではないかと想像する。

2020-06-15 19:36:49
ストライクフォース @kamaeatte

一方攻城側については「士衆まさに城に附かんとする時、数筒一箭眼に対して、賊を打縮し以って功手を助く」「士衆塁壁の下に在り。未だ姫牆に附かざる時、賊の女牆に臨んで瓦石を投ずる者を打縮す」などとあり、鉄砲足軽は城の狭間一つを数人で撃ち、また瓦や石を投げようと土塀から身を乗り出した敵兵

2020-06-15 19:36:58
ストライクフォース @kamaeatte

を撃つなどの制圧射撃を行って侍衆が城内へ乗り込むのを支援するようだ。またこれらの鉄砲足軽も最終的には銃頭に従い、女牆を乗り越え城内に入るという風に書いてある。それにしても長沼流の軍学書は流祖である長沼澹斎が中国兵法に造詣が深かったせいか伍長、隊総、眉尖刀、雉堞など中国兵法の用語を

2020-06-15 19:37:07
ストライクフォース @kamaeatte

やたらと使っていてややこしい(紀效新書などの影響と思われる)。普通に士大将とか薙刀と書いた方がいいと思う。やたらと横文字を使いたがる現代の軍事評論家みたいなものだろうか

2020-06-15 19:37:15
ストライクフォース @kamaeatte

慶応四年(1868)八月二十三日、外郭を突破して一気に会津若松城を攻略せんとする新政府軍は大手から北出丸に至り、そこで北出丸・伏兵曲輪・帯郭の三方からの射撃を受けて大きな損害を出し撃退されている(なんてヘタクソな図だ!)。特に帯郭の北隅櫓、御弓櫓からの射撃が激しかったという。 pic.twitter.com/te1tzNlruA

2020-09-30 19:50:28
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ストライクフォース @kamaeatte

若松城の堀幅は40~60メートル程と火縄銃の射程に合わせて設定されており、旧式銃でも十分新政府軍に対抗できた。これは近世城郭の防御プランが実戦で築城者の意図した通りに機能した稀有な事例ではないだろうか。参考文献は藤井尚夫「ドキュメント 幕末維新戦争」、香川元太郎「日本の城」他。

2020-09-30 19:51:08
ストライクフォース @kamaeatte

島原の乱は江戸時代に築かれた近世城郭において籠城戦が行われた数少ない事例だが、富岡城では守備兵力が少なかったために二の丸を放棄して本丸からの鉄砲や大筒の射撃で一揆勢を撃退し、島原城では一揆勢が鉞で城門を破壊、城方はその破れ目から鑓を付き出して対抗したという(神田千里「島原の乱」)。

2020-06-24 11:24:02
ストライクフォース @kamaeatte

後者は籠城戦での長柄の役割の一端を示しているようで興味深い。近世城郭は鉄砲の火力発揮・防御に特化した変化を遂げ鑓狭間のような鑓使用の工夫ほとんどみられなくなるが、長柄は敵の大鉄砲などで塀や門を破壊された際に移動できるバリケードとして活用することを想定していたのだろう。

2020-06-24 11:24:15
ストライクフォース @kamaeatte

中井均氏によれば、正保城絵図は大名が幕府に反旗を翻した際の城攻めに活用するべく作成されたもので、実際にのちの明治維新で江戸城に入った官軍は仙台城や会津若松城の城絵図を接収して城攻めに用いたという。また、正保城絵図に記された多くの注記は石垣・土塁の高さや堀の深さ・幅についてのもの

2021-10-09 10:23:42
ストライクフォース @kamaeatte

であること、櫓や門の描写は正確さを欠くこと、寛永武家諸法度においては石垣や堀の修築には幕府への届け出が必要である一方で櫓や門は旧来通りの修築であれば申請の必要がなかったこと等は、近世城郭においても堀や石垣などの土木施設が防御施設としてより重視されていたことを

2021-10-09 10:24:17
ストライクフォース @kamaeatte

物語っているのだという(山川出版社「新編日本の城」)。そこから考えを進めると、江戸時代初期には敵城内へのアプローチとして虎口の突破ではなく堀を埋める、石垣を登攀する等といった遮断線の突破が第一に想定されていたと仮定できるだろうか

2021-10-09 10:24:41
ストライクフォース @kamaeatte

似たような軍学の話で「左袖」というのもある。虎口の前の土橋に横矢をかけるために、城内から見て左側に塁線を突出させるというものだが、こうすると左向き半身に弓を構える射手は比較的矢を射やすいのだという。 twitter.com/kamaeatte/stat… pic.twitter.com/bT84KZ6GZR

2022-01-19 18:06:47
ストライクフォース @kamaeatte

近世城郭の枡形虎口について、射手が敵に身体前面を晒さないため、あるいは射手が甲冑の袖(射向けの袖)で身を守りやすいように枡形内の導線を右折れとするのが望ましいというような説明をたまに見るが、実際どうなのだろう。 pic.twitter.com/WBXTVkEK6D

2020-09-08 19:12:50
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ストライクフォース @kamaeatte

確かにこれなら(自分から見て)左方向から右方向へ進む敵兵を射ることになるわけだから、体を外側にねじって右方向から左方向へ進む敵兵を射る「右袖」よりもやりやすい、というのは感覚的にわかるような気もする。ただ僕は弓を手にとったことすらないので、完全に想像の域を出ないのではあるが

2022-01-19 18:08:01
ストライクフォース @kamaeatte

そういえば以前相互の方に、海外にも「左手に盾を持つ敵兵をSATSUGAIしやすいよう城門は左折れがよい…とされるが実際の遺構をみると右折れと大差がない」という話があるのを教えていただいたが、実際に戦っていた頃の兵士たちは案外そこまで気にしなかったのかもしれない。 twitter.com/apatheia_castl…

2022-01-19 18:08:37
アパテ@城好き @apatheia_castle

@kamaeatte 以下には、左手に盾を持つ(と想定される)攻撃者が右側をさらけ出すように、門は左折れがよいという旨の記載がありました(64p辺り)。 そして、実際には、右折れの門も、より合理的な(はずの)左折れの門と大差ない位よく見られる、との言及もありました。 academia.edu/30845720/Baffl…

2020-09-09 00:42:03
ストライクフォース @kamaeatte

まあこの「左袖」、先行地形を改変したり他の曲輪との位置関係を無視してまで施す価値があるかと言われたら疑問ですしね

2022-01-19 18:09:18
ストライクフォース @kamaeatte

慶長五年(1600)の安濃津城の戦いについての白峰旬氏の論考が面白い。吉川広家軍の手負討死注文から籠城側の使用武器、吉川家中の軍事編成などが考察されている。 その1 repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonip… その2 repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonip… その3 repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonip…

2022-02-01 19:42:53
ストライクフォース @kamaeatte

これによると、吉川軍の被害は討死75人、手負226人で、負傷例263(一人で複数の傷を負った場合は別々にカウント)の内訳は鉄砲傷143、鑓傷82、矢傷37、刀傷1とのこと。攻城戦だから鉄砲傷が多いのは当然のことだが、矢傷も意外と多い。鑓傷は城際や城内での白兵戦によるものと思われる。

2022-02-01 19:44:13
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