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どうして撰銭の対象だった永楽銭がいつの間にか京銭の4倍の価値になったんだい? 戦国・近世初期貨幣史はわけが分からないよ

何やらここ二十年以内にやたらと戦国時代の銅銭流通に関する研究が進歩して、いままでの常識が10個や20個覆る事態になってるらしい。そういう最先端の本を数冊読んだまとめ
歴史 日本史 戦国 戦国時代 経済 明銭 銅銭 宋銭
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儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 『宋銭の世界(伊原弘・編)』『貨幣の地域史(鈴木公雄・編)』『越境する貨幣(青木書店・歴史学研究会編)』と立て続けに宋銭の本を3冊読んだのですが、一言で言うなら『わけがわからない』です。永楽銭が撰銭の対象から30年で急激に基軸通貨になっています。
まとめ管理人 @1059kanri
@giteki 本当にわけわかりませんよねw地域によっても変わってくるし。しかも戦国初期くらいから中国銭の信用不安が西国から広がり始め、織田信長の時代についに破綻して貨幣経済が停止してしまう。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 西から、かどうかは若干分からないのですが、畿内では1560年頃に銭経済から現物経済に移行して、1570年頃にまた経済が転換し、現物経済から銀使いに移行する。一方その頃、東国では永楽銭が京銭4文相当の価値で使われていた。
まとめ管理人 @1059kanri
@giteki 東国はもしかすると北条の貫高検地の影響があったかもしれませんね。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri ・北条だけで影響力がそれほどあるとは思えない ・北条も永楽銭不足に苦しんでいて、税の現物納に関する法令が1550年頃から頻出する ・現在の東海村(勢力範囲としては佐竹氏)で永楽銭の枝銭が見つかっているから、ここでも私鋳していた?
まとめ管理人 @1059kanri
@giteki おお、なるほど。東国は経済圏としてもやはり西国とは一線を画していましたしね。 ただ北条による生産量から軍役賦役まで全てを貫高で計算する体制が、銭に西国とは違う価値観を与えたのではないかな、とか思いましたw
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri ・故・鈴木公雄先生によりますと、博多でも永楽銭の出土が増えるのは16世紀後半から ・少なくとも1542年の室町幕府撰銭令には永楽通宝の条件付き使用許可があり、撰銭の対象だったことが分かる ・ただ、やはり永楽銭の出土は著しく東国の16世紀後半に偏る
まとめ管理人 @1059kanri
@giteki なるほど。16世紀後半になって東国で永楽銭の需要が一気に高まった、と
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 需要、かなぁ。その辺がよく分からない。そもそも明朝からして、新しい銭よりも使い古された銭の方が信用されたらしく、明本土でも洪武銭や永楽銭ではなく宋銭が私鋳され、永楽銭は見なくなったらしいのです。(ちなみに一条鞭法以前の明財政は銀・銭・紙幣の三本立てです)
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 畿内では『洪武銭・永楽銭などは、条件付き(百文中20枚まで、など)で1枚1文として流通させる』という撰銭令が1550年代まで相次いでいて、我々が一般にイメージする『悪銭は○枚で精銭1文相当とする』という撰銭令は1569年の信長令まで見られません。(続く)
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri (続き)一方、東北では若干の史料(ただし戦国東北の貨幣については史料不足気味)で、16世紀初頭から悪銭2~4枚を精銭1文とする階層化が見られ、16世紀初頭の甲斐国のとある史料でも米の値が他より妙に高く、この米価が悪銭建てである可能性があります。(まだ続く)
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri (続き)九州でも、1514年に相良氏が銭の階層を何段階かに定める撰銭令を出しています。これらのことから、『畿内の荘園領主に送られる年貢は精銭ベースで送り、地元では悪銭何枚かを精銭1文相当で使う』という体制が地方から進行したのではないかと見られます。
まとめ管理人 @1059kanri
@giteki そうなると後の寛永通宝の出現が見えてきますね。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 一方、西(京都を含む)は(石見銀山があったから?)銀が次第に基準貨幣となっていき、銭の価値が下落します。実際、毛利氏(言うまでもなく石見銀山を押さえています)は70年前後くらいから戦闘地域に、(兵士への支払いとして)銀を送るようになります。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri ちなみに同時期の毛利氏は地域通貨として独自の銭を発行していますが、その流通について定めた法令は出していません。市場に任せていたものと思われます。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 九州はまたよく分からない。わざわざ洪武通宝(同時期の日本全般で見たら価値は低い)を私鋳していた跡が見つかっているなど、これもまた地域の独自性があったものと思われます。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 今まで述べていたような現象が、京での金銀基軸通貨化(銀がメインですが、金も今川氏や武田氏が貴族への献上品として贈っていたことにより流通していました)並びに銭の価値が西で安く東で高いという現象を生み、東国へ流入していったものと考えられます。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
で、東国では以前から永楽立てで税を取っていたことから(?)永楽銭が超・精銭化し、京銭の4倍の価値を持つようになっていった。ただし、実際に永楽銭が4倍の価値で通用していたというより、永楽銭を名目上の基準銭として京銭が流通していたというのが16世紀末期の状況と推測されます。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri で、その最後の行き着いた先が江戸幕府による1608年の永楽銭通用停止と、金1両=永楽1貫文=京銭4貫文という公定レートの定めであり、1635年に(京銭と同価値の銭としての)寛永通宝の発行と、1670年の全海外銭使用停止につながると考えられます。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri なお、近世初期にはオランダが日本産の銭を輸出していたらしく、サカモト(近江坂本・私鋳銭の一大生産地)、ミト(水戸・同じく私鋳銭産地)、エーラク(説明不要)などの名前で輸出していたようです。銭の話はこれでおしまい。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 補足。特に説明無く『宋銭』と書いてきましたし、実際に宋銭はどの年号でも区別されなかったのですが、もう一つ、開元通宝(唐の銭。多くは模鋳銭だろうけど…)も宋銭と同価値として流通していました。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 戦国期銅山に関して明らかになっていないことが多く、その辺が解明されれば銭の原料銅をどうしていたか、銅産地を押さえることとのつながりなどが分かるのでしょうが…こっちは未解明な部分が多いそうです。
儀狄@パブリックエネミー @giteki
【緩募】戦国時代の銅山について研究してくださる鉱山関係者・歴史学者の方
まとめ管理人 @1059kanri
@giteki そうなのですか!そういえば前に、ニュージーランドの方で寛永通宝が見つかったというニュースもありましたね。ありがとうございます!
儀狄@パブリックエネミー @giteki
@1059kanri 寛永通宝が出土したニュースというとバリ島でしょうか。清朝中国は銀財政でしたがこの銀は秤量貨幣であり、少額取引には向いていませんでした。清朝も銅銭を発行しているのですが十分ではなく、日本から寛永通宝が輸出されました。中国で寛永通宝が出土するのは珍しくありません
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