amenitydry先生らによる某法哲学会功利主義祭潜入記
- eguchi1965
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法規範によって因果的惹起される事態というモデルをとれば、名宛人は立法者になる。間接的行為功利主義という正義にかなった義務に従うのは立法者であり、立法者に対してのみこの正義が成立すればよい、ということかな。
2011-11-13 13:27:04立法を行うという行為が功利主義によって正当化されているのであり、被治者がそれに従うべきとかいうのは、第一義的には問題ではなくなる。統治功利主義は、被治者に法に従うべきという道徳的行為理由を、それ自体としては与えないと。
2011-11-13 13:30:59統治功利主義は、皆がその法に従うかどうかという計算をすでに織り込んだ上で、最善の帰結を見込めるような立法を行うべきだという当為を、立法者に指令するという感じでしょうか。
2011-11-13 13:33:08被治者の傾向性への介入方法はいろいろヤバイものを考案することはできるけれど、功利主義はどれも排除せず、統治のバリエーションを増やす。状況の操作によって、自由や自律を阻害しないままこうい促すというナッジもありえるし、物理的アーキテクチャによって物理的に行為を阻害してもいいと。
2011-11-13 13:38:12安藤先生のレッシグのアーキテクチャ論での事後規制としての法理解への批判(法も本質的には事前規制であり、統治者の能力不足により事後規制っぽくなってる)への批判。警察法をよく見てみると違うんじゃないかとか。
2011-11-13 13:45:22続いて安藤先生の人格論への批判。統治と功利でのかつての家制度とのアナロジーとして提起された「「私」の連座制」というパーフィット的な発想への批判。
2011-11-13 13:48:40続いて、おおや先生の報告「功利主義と法」。法は最初から事前規制にコミットしているとの安藤先生の見解を批判。法が事前の介入を認めるのは例外的。
2011-11-13 13:51:57人格が解体されれば、統治功利主義の名宛人となる統治者とは誰になるのか問題。アーキテクチャと制度こそが名宛人であり、同一性を維持する人格などというものではないと。問題は「感覚」だけしか残らない世界になってしまう。安藤先生は結局誰に向かって論じているのか。
2011-11-13 13:52:22命令として法をとらえる見方は、魂に対する態度、他者の他者性を前提としているので、諸個人を快苦の受け皿として理解する見方とは両立しない、っていう感じの話だと思っていんですか。
2011-11-13 14:01:33話が形而下に戻ってきた。安藤さんのアーキテクチャとしての統治は、諸個人への無限の介入をむしろ積極的に賛成するので、かつての暴力的な福利警察の時代への逆行ではないか、という話だと思う。
2011-11-13 14:08:28警察規制をアーキテクチャと同一視する安藤さんの主張は乱暴だし、人格性を軽視しすぎる安藤さんの理論は危険だと、まず出発点は「私」に置かなくてはならない、という結論でよろしいでしょうか。
2011-11-13 14:12:34