兵農分離を行った証拠は実はない

「日本戦国期の地域国家をドイツやイタリアのそれと比べたら」 http://togetter.com/li/327180 の続きです。 どなたでも編集できます。
128
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

さて、この前書ききれなかった、何故戦国大名≒「国民国家」萌芽論が戦国史研究者の間では慎重に受け止められているか。

2012-06-27 00:03:31
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

それは議論の根拠である、北条氏の総動員令にある。たしかに北条氏は、村落に住む15歳~70歳の男子の名簿を作成し、民兵動員をかけている。この際に、「御国に住む者の義務」「御国のため」と唱えられたことが、「国民国家」へとつながっていくという考え。これがひとつの柱。

2012-06-27 00:05:46
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

ただし、ここには落とし穴がある。北条氏が総動員令を発令したのは、合計2回。一回目は武田信玄の小田原攻め、二回目は豊臣秀吉の小田原攻めである。大名が滅亡しかねないという危機感のもとに出された法令だ、という点に難点があるのだ。

2012-06-27 00:07:14
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

つまり、「総動員令」は平時の法令ではない。だから戦国大名権力の特質として一般化することはできないのではないか?性急すぎる議論ではないか?という疑問が多く寄せられたのである。私も同様で、あくまでこういう議論がある、としかいえない。もう少し慎重に考えたい議論なのである。

2012-06-27 00:08:58
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

ただ、戦国大名権力が近世大名につながっていくことは間違いなく、また御国意識の起点が戦国期であることも間違いない。郷土の英雄は、一般に戦国期までしか遡らない。国郡単位での団結が生まれたのも、戦国期である。こうしたことを踏まえ、俯瞰的に歴史を捉えることもまた、重要だとも思っている。

2012-06-27 00:11:16
ITO Toshikazu @toshiitoh

戦国~近世にドイツ・イタリアのような地域国家の並立状態になりながら、なぜ近代日本は連邦国家にならなかったのか。これは天皇の存在というより、戦国時代が短すぎたからじゃないか。ドイツ・イタリアなんて10世紀から分裂してるし。

2012-06-27 00:20:52
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

たしかに日本の戦国時代は短すぎますね。逆に、なぜ短期間で終わったかという疑問が生じています…。 RT @toshiitoh: 戦国~近世にドイツ・イタリアのような地域国家の並立状態になりながら、なぜ近代日本は連邦国家にならなかったのか。…戦国時代が短すぎたからじゃないか。

2012-06-27 00:31:17
ITO Toshikazu @toshiitoh

日本は内戦に外国勢力が絡まないので、中央に優勢な勢力が生まれると地方がコロリとやられてしまう。もっと日本海が狭く、九州と朝鮮、東北と騎馬民族が結びついていたらおもしろかったのに(^^)。

2012-06-27 00:35:05
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

なるほど、たしかに仰る通りですね。 RT @toshiitoh: 日本は内戦に外国勢力が絡まないので、中央に優勢な勢力が生まれると地方がコロリとやられてしまう。もっと日本海が狭く、九州と朝鮮、東北と騎馬民族が結びついていたらおもしろかったのに(^^)。

2012-06-27 00:36:14
住友陽文 @akisumitomo

兵農分離は大きかったのではないでしょうか。徂徠が武士土着論を言わなければいけなかったほどですし。戦国はともかく日本の近世と西欧の領邦国家とはかなり違いますね。16世紀末の転換期は日本史上の大きな画期。 RT @toshiitoh なぜ近代日本は連邦国家にならなかったのか。

2012-06-27 00:46:05
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

その肝心の、兵農分離を行った証拠が実はないのです。 RT @akisumitomo: 兵農分離は大きかったのではないでしょうか。徂徠が武士土着論を言わなければいけなかったほどですし。戦国はともかく日本の近世と西欧の領邦国家とはかなり違いますね。16世紀末の転換期は日本史上の…

2012-06-27 00:53:54
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

兵農分離は存在したか。実はこれこそが、現在関東の戦国史研究者と、織豊期以降近世にいたるまでの研究者の間で論争になっている重大事項なのだ。もっとも、近世史側からはまともにとりあってもらえないのだが。

2012-06-27 00:56:42
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

以前にもツイートしたが、織田信長が兵農分離を行ったとする証拠は、『信長公記』天正6年正月29日条の記述が唯一である。少し長くなるが、訳文を引用してみよう。

2012-06-27 01:05:30
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

正月29日、御弓衆である福田与一の(安土城下の)宿所から火事が発生した。ひとえに妻子が引っ越してきていないため(宿所の管理が疎かになって)、火事が起きたのだと(信長は)ご判断なされ、直ちに菅屋長頼を奉行としてリストを作り、調査した。(続く)

2012-06-27 01:05:57
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

すると、御弓衆60人・御馬廻60人、合計120人も妻子が引っ越してきていない者がいると判明し、一度に処罰することとなった。御弓衆の中から失火が出たことは、なによりの不祥事だという(信長の)上意によって、岐阜城主である織田信忠(信長の嫡男)に使者で命じて、岐阜から奉行を出して、(続

2012-06-27 01:06:21
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

尾張に妻子を残している御弓衆の私宅をすべて焼いて回らせた。そのうえ、私宅の周囲の竹木まで切り取ってしまった。この結果、どうしようもなくなって、120人の家臣の妻は安土城下へ引っ越してきた。今回の罰として、安土城下に新しい道を造るよう命じられた上で、みな赦免された。(終わり)

2012-06-27 01:06:34
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

問題となっているのは、信長直属の弓衆・馬廻120名の家族が、尾張から安土城下に引っ越してきていないということであった。これに信長は激怒し、尾張を管轄する信忠に命じ、強制的に家族の引越をさせた。なお、ここで家を焼いているのは、犯科人居宅に対する処分として中世では一般的な行為である。

2012-06-27 01:09:13
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

さて、これのどこが兵農分離なのだろう?この記事は、馬廻というエリート家臣たちを、本拠地安土城下に集住させようというものである。ようするに、重臣の城下町集住策である。それが天正6年(1578)という政権末期にいたるまで、まだ実現できていなかったということを示す記事に過ぎない。

2012-06-27 01:10:56
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

重臣の城下町集住は、既に15世紀の段階で、朝倉氏が分国法で定めている。それをようやく信長が実行に移せた、というのがこの記事なのである。どう読んでも、信長が兵農分離なる政策を実行したという証拠にはならない。そして他のどの史料をみても、信長・秀吉が兵農分離を行った証拠は出てこない。

2012-06-27 01:13:36
住友陽文 @akisumitomo

それは興味深いですがどういうことですか?僕は兵農分離は近世社会の基本原理と捉えているのですが、それがなかったと? RT @kurmacf その肝心の、兵農分離を行った証拠が実はないのです。 RT @akisumitomo: 兵農分離は大きかったのではないでしょうか。

2012-06-27 01:13:35
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@akisumitomo 実は信長・秀吉が兵農分離を行ったとする根拠は、『信長公記』天正6年正月29日条の記述が唯一なのです。そしてその内容は、信長直属の弓衆・馬廻の家族が、尾張から安土城下に引っ越してきておらず、激怒した信長が強制的に家族の引越をさせた、というものです。

2012-06-27 01:16:55
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@akisumitomo これは、単に重臣の城下町集住策を行ったという話にすぎません。しかし、信長・秀吉の軍事的勝利の論拠として、兵農分離した特別な軍隊を率いていた、という議論が生じてしまい、現在に至っているというのが正直なところです。

2012-06-27 01:19:04
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@akisumitomo 実際には、武士が所領から離れるようになったのは17世紀後半の前期藩政改革の中での話です。つまり戦争がなくなり、領地である村支配も大名が代行する形が整ったため、職場に近い城下町に集住するようになったということなのです。

2012-06-27 01:22:01
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@akisumitomo これが武士が村から離れるようになった経緯です。実際には、秀吉の軍隊も江戸時代の参勤交替時の大名の軍勢も、村から百姓を雇って編制されていました。しかし仰るように、近世史の基本理念となっているため、織豊期以降の研究者からは受け入れられない議論となっています。

2012-06-27 01:24:23
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf

@akisumitomo 兵農分離の実態とは、戦争がなくなった結果、兼業兵士が農業に専念して村落に残り、専業兵士が城下町に居住して役人となったとみるのが妥当というのが、近年の関東の戦国史研究者の理解となっています。ただ、議論が噛み合わない歯がゆさがあります。連ツイ失礼しました。

2012-06-27 01:33:29