分かるを教える現象学?
- sunamajiri
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この眼差しという経験の話は、文学では近代小説で実践される話だからね。ある意味、近代小説としてしか実践できない経験の話でもあるから。(^-^)/ @LitoSnowfield
2012-08-10 03:10:43ハイデガーが受けたら受からなかったりしてwww(^-^)/ @LitoSnowfield ビシバシ指導してみますか(*^o^)?
2012-08-10 03:08:18うん、私たちの世代は、これ踏まえて脱構築しちゃった文章と接していたけど、いまのゆとり世代は両方読んでないのに、国語テストされてるよww @LitoSnowfield あはは(*^o^)> 只今、ざっと読ませて頂きましたが…こういう文章に慣れていないと確かにそんな風にも読めるの
2012-08-10 03:05:27@sunamajiri あはは(*^o^)> 只今、ざっと読ませて頂きましたが…こういう文章に慣れていないと確かにそんな風にも読めるのかも知れませんね(笑)
2012-08-10 02:52:57今年の東大国語は、http://t.co/x76W6IF3 の最初のページの3.11に関する冒頭記述を省略して出題されたのだが、メルロ大好き総本山だからねって(^-^)/ @LitoSnowfield
2012-08-10 02:44:45うん、東大受験生がメルロしらないというから、さわりの部分に傍線つけて、「スクリーンは地平をもたない」とはどういうことか説明せよ、という授業をしてあげたら、こりゃ基地外文章だといってたよ(^-^)/ http://t.co/kP3jvzcf @LitoSnowfield
2012-08-10 02:39:26おお、受験じゃなくて受難か、最近目が悪くてPCのモニターの文字がいまいち見えてない。IPADだと読めるんだけど(^-^)/ @LitoSnowfield ビシバシ指導してみますか(*^o^)?
2012-08-10 02:23:30ハイデガーがどっか受験するのかしらーww(^-^)/ @LitoSnowfield う…受難の時代…なりね(つo<)
2012-08-10 02:20:49@sunamajiri ねっ(*^o^)v 哲学者さんも呑まずにはいられないのでしょうか…(*uou)??
2012-08-10 02:12:46えー、みてなかった、ハイデガーが誤爆したのー?(^-^)/ @LitoSnowfield ハイデガーbotさんのtweet誤爆を照れていらっしゃるのが可愛いです(*^o^)>
2012-08-10 02:08:30私がこれまで発表したもののどこを探しても、また、私の方法や、私が用いる概念のいずれをとってみても、遠まわしにでさえ構造主義を想起させるようなものは何も無い。私が構造主義者だと思い込んでいるのはピアジェくらいでしょう。-大がかりな収監-
2012-08-09 15:55:29主観とはもとより、自己に執着するエゴイストの意味での主観的なもののことではない。主観は客観への表象的関係において存在する。しかしそれはこの関係として、すでに自己への表象的関係である。「ヘーゲルの『経験』概念」
2012-08-09 00:57:27経験的な内容に超越論的価値を付与したり、経験的な内容を構成的な主観性の側に位置づけたりする際に、少なくとも密かに何らかの人間学に訴えずにいることは恐らく不可能だろう。-言葉と物-
2012-08-08 23:55:30ヘーゲルはもはや哲学という名称を用いない。彼は学問(die Wissenschaft)という。なぜならその間に近世哲学は、それが始めて踏み入った大陸を完全に占領し、こうしてその本質の完成の中に達していたからである。「ヘーゲルの『経験』概念」
2012-08-07 21:33:38自己感覚は―自己思考と同じく―能動的な感覚である。感覚器官は、思考器官と同様に、意のままに統御できる。 『テプリッツ断章』
2012-08-06 05:29:031.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。-主体の解釈学-
2012-08-05 22:55:42世界そのものは、世界の内部にある存在者のひとつではない。けれども世界はこれらの存在者を規定していて、それらが、出会ったり、発見された存在者としてその存在において現われてきたりすることができるのも、実はひとえに世界が「与えられている」からなのである。「存在と時間」
2012-08-03 03:30:58シュタイナーの語る「認識」の概念は、19世紀後半の「認識論」の意味での「認識」の含意を、まずは基礎としている。そして彼の何よりの関心事は、宗教的な意味での救済というよりも、カント以来哲学と実証科学が人間に課してきたいわゆる「認識の限界」の踏破であった。(深澤英隆『啓蒙と霊性』)
2012-08-01 23:35:28舞踏芸術が人間の身体とその運動の自然論に関係するように、あるいは、絵画芸術が光学と眼の理論に関係するように―まさに論理学は心理学に、もしくはその主要部分、つまり思考の自然論に、関係する。 『断章と研究』
2012-08-01 22:59:40古典時代の思考にとって、有限性というものの内容は、ただ無限性の否定だけであった。ところが18世紀末に形成される思考は、有限性というものにポジティヴなものの力を賦与する。その時に出現する人間学的構造は、限界を設ける臨界的役割と、起源をつくる役割とを、同時に果たす。-臨床医学の誕生-
2012-08-01 22:55:45ホッブズは機械論を国家に適用して、その最小単位を個人と考えたわ。ホッブズによれば、人間の基本的欲求は「自己保存」であり、その為には手段を選らばない利己的存在なの。国家が存在しない状態――自然状態を仮定すればそれは「万人の万人に対する闘争」になるってね♪
2012-08-01 17:05:46