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江戸時代の藩校での読み書き算術について

江戸時代の藩校での読み書き算術についてまとめました。
人文 草書 武士 学校 学校教育 楷書 藩校 江戸時代 行書 教育
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@miohiroko
0408[藩校]続いて、教育内容。「読み、書き、算盤」という有名な言葉は寺子屋など庶民の教育科目(内容)を一言で表したものだが、武士の教育もこれと大差なかった。藩校ではまず幼年期では手習い(習字)から開始し、次いで四書など漢文の本の素読(そどく)をし、最初は意味は考えずにとにか→
@miohiroko
→く師匠の読み方を聞いてそのまま暗記するように覚えた。漢文は同じような語調、表現が多いことから、そらで覚えるのはさほど難しくない。しかも、調子に慣れるとよほど難しい書物でないかぎりほかの書物も読めるようになることから、当時の人たちの漢文の力がすごい大きな理由がこの方法にあった。
@miohiroko
0409[藩校]読みに続いては算術。もちろん高等な数学(円周率をはじめ、高等な数学は中国から伝わり、関係書物もたくさんあった)は官僚たる武士には必要はなく、書類に必要な計算程度だが、それを習得した。
ただまご = 永島孝 @tadamago
@Movizoo @Kyoko_555 日本の数学のレベルの高さは江戸時代からの伝統のおかげです.数学の入門書「塵劫記」は江戸時代のベストセラーの一つ.寺子屋・手習所で読み書きそろばんが教えられ,多くの子どもたちが数に馴染んでました.
ただまご = 永島孝 @tadamago
@Movizoo @Kyoko_555 十,百,千,万,億,兆,京などなじみの数詞も塵劫記に拠ってます.元の意味が忘れられても「にっちもさっちも」が言葉として残ってます.鼠算(塵劫記にある数列の問題)といえば急激に増えるたとえということだけは皆がおぼえてます.
ただまご = 永島孝 @tadamago
@Movizoo @Kyoko_555 17~19世紀に数学書がベストセラーになるというのは日本以外に例がないのではないでしょうか.
@miohiroko
0410[藩校]それから礼(作法)は、社交上必要なものは年齢がある程度高くなってから教わったが、武士としての基本(=心構え)としての礼は規則という形で入学時からやかましくしつけられた。
@miohiroko
0411[藩校]奇異に思えるのが武芸。これは一般的傾向、つまり当時の常識として、青年期になるまでは教えなかった。だいたい15歳頃。文武両道だから、小さいうちから稽古で厳しく鍛えると思われるだろうが、なぜか当時は藩校ではそれをしなかった。あきらかに「文」中心。理由はよくわからな→
@miohiroko
→いが、それぞれの家において父や武芸の腕のある家臣や従僕が教えるということに任せたのかもしれないし、体の出来上がっていない子どもに無理をさせて万が一のことがあればと面倒な事を回避したのかもしれない。いずれにしても、武芸は高学年のみだった。
@miohiroko
0412[藩校]もうひとつ意外なのが和文。藩校では、ひらがなによる大和言葉(日本語)は教えなかった。これは町人や農民たちにおいては必須のものとして寺子屋や私塾で教えたが、武士の世界では相手にしなかった。これは平安朝以来の伝統や意識が影響している。
@miohiroko
0413[藩校]平安時代の「日記」を見れば分かるように、男は漢文、女は和文と、完全に分かれていた。漢文力が男性に比肩した紫式部がいろいろ陰口を言われたように、言葉が性別によって分かれていた。この意識が江戸の支配層にまで及んでいた。
@miohiroko
0414[藩校]もちろん、武士でも和文を読み書きしてはいけない、という規則などなかったし、和文を書いたりくだけた書物を読むことは藩主でさえあったこと。ただ、教育の場では和文は媒体として認められなかった。
@miohiroko
0415[藩校]帆足万里(ほあしばんり)という学者は、教育のために漢文の書物をすべて和文に翻訳すべし、と説いたが、誰も相手にしなかったほど。ちなみに、江戸時代を通して5本の指に入る(3本以内に入れる人もいる)荻生徂徠は逆で、漢文はそのまま中国語として読むことを主張、実践した。
@miohiroko
0416[藩校]漢文の素読を幼少期から行ったので、多くの生徒は自然と慣れ、身についていった。しかし、中にはどうしても覚えられない者、苦手な者もいた。そこで、例えば水戸藩ではなんとしても四書などの内容を会得させる必要があるということから、町人などが読む和文訳をしたものを読ませた。
@miohiroko
0418[藩校]手習い。習字は臨書、つまり手本をひたすら写すことが行われた。手本は教師が書いて示すこともあれば、印刷されたものを元にすることもあった。印刷技術は時代が下るにつれて精巧なものとなり、まるで肉筆そのもののような出来のもあった。が、さすがにそのようなのは藩校ではあまり→
@miohiroko
→使われず、大量に摺ったものが使われた。
@miohiroko
0419[藩校]余談。今は写真版により、古今の名品がそのまま見られるし、手本ともなる。が、当時は写真などないから、摸写したり印刷したものが手本となった。この理由も一因として、江戸時代の書は暗黒時代である、と大変に専門家らの間では評価が厳しい。お家流という幕府公用の書体について→
@miohiroko
→も。書道史の点ではそうなのだろうが、限られた状況の中で先人たちは必死に学び、研鑽し、楽しんだ。この行為まで暗黒の中に入れてしまっては先人たちが浮かばれない。書道史における江戸時代の比重は驚くほど低く、寛永の三筆とか限られた者しか教わらない。決してそれだけではなかったのである。
@miohiroko
0420[藩校]生徒たちはひたすら臨書をし、自分の番が来たら教師の所へ行き、書いたものを添削指導してもらった。時には教師が巡回し、生徒の背後から生徒の手を取って教えた。書を教えるぐらいであるから、教師は逆の字を書くことも平気で、生徒の前から、生徒の位置で見る字を書いた。
@miohiroko
0421[藩校]現代は毛筆は日常生活から完全に離れたものとなっている。学校で書写の時間はあっても、伝統文化を学ぶことが主眼であり、評価されるのは芸術的な観点からである。これを実用のものとして学ぶ人はまずいない。いても、限られた職業や立場を目指す人だけである。
@miohiroko
0422[藩校]しかし、江戸の当時は筆記といえばすべて毛筆であり、ましてや武士は細字で書類や書簡を日々書く立場である。嫌ではすまされない。書が生活とともにあったからこそ、手習いは重視された。
@miohiroko
0423[藩校]現在、習字は楷書から入る。しかし、当時は行書、草書が先で、楷書は後から教わった。活字体に慣れてしまった私たちには理解し難いことだが、そもそも筆というのは流れるごとく続けて書くのに適した道具であり、一点一画ごとに離すのは時間がかかり、不便である。そのようなことから→
@miohiroko
→くずし字を先に教わり、庶民はここまで。武士だけが楷書まで進んだ。信じられないと思うが、庶民の中にはくずし字は流暢に読めても、楷書をつきつけられるとたちまち外国の言葉のように全然分からないというのがザラにいた。これについては書物の話で具体例によって説明する。
@miohiroko
0424[藩校]続いて「読み」の対象である漢文について。先述したように、江戸時代は家康の操業時に朱子の宋学を推奨したことから、長くこれが教育の主体となる。武士の藩校、庶民の寺子屋や私塾、すべて同じ。幕府は権力をもって強制したことはないが、右へ倣えの風潮は当時も強かった。なお、異→
@miohiroko
0425[藩校]漢学。藩校では、手習いに続いて漢文の書物の素読(そどく)が始まる。先述のように意味は全く考えず、師匠の読みを真似てひたすら音読をする。漢文訓読は定型表現が多く、切れ目が短くてリズムがあるので、覚えるのは早かった。入門期としては『孝経』と『大学』が使われた。
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