江戸時代の藩校での読み書き算術について

江戸時代の藩校での読み書き算術についてまとめました。
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@miohiroko

0426[藩校]漢学。『孝経』(こうきょう)はその名の通り、孝についてのあり方をまとめたもの。孝とはもちろん親に対する孝行のこと。孔子の弟子の曽子(そうし)の著とも、或いはその弟子か流れを汲む者の著とも言われる。父母から頂いた身体は傷つけないのが孝の始めというのが有名な教え。

2012-10-12 12:35:51
@miohiroko

0427[藩校]漢学。楊貴妃との悲恋「長恨歌」で有名な唐の玄宗皇帝がとてもこの本を気に入り、自ら注釈書を著した(御註孝経)。その影響もあり、日本でむしろよく読まれた。今でも神田の和本を扱う古書店で時々見かける。分量が少なく薄い本なので、初学向き。

2012-10-12 12:39:57
@miohiroko

0428[藩校]漢学。『大学』は先述したように、もと『礼記』(らいき)の中の一篇で、朱子が独立させて四書の一つとしたことから、これもまた入門用として使われるようになった。ちなみに、薪を背負いながら読書している二宮尊徳の像は、この『大学』を読んでいる所とされている。

2012-10-12 12:44:06
@miohiroko

0429[藩校]漢学。最初は意味を考えずとにかく発音通りに音読をする。とはいっても、内容が気にならない子はそんなにいないわけで、やはりなにが書いてあるのかを知ろうとする。字を覚え、語調を知るにつれて、内容が少しずつ見えてくる。決して素読は無駄無意味な行為ではなかった。

2012-10-12 12:48:29
@miohiroko

0430[藩校]漢学。素読は1日に進む範囲の上限が決められていた。およそ半ページ。暗記力の良い生徒はもっと覚えられるだろうが、素読は結果的に暗記であるが、暗記が目的ではない。四書は聖人が著わしたり聖人に関する事が書かれている。丁寧に読むことが求められた。そのため時間をかけた。

2012-10-12 18:08:15
@miohiroko

0431[藩校]漢学。素読はおよそ15歳ぐらいまで行った。今で言えば小・中学校の間は延々と素読ばかりとなる。多くの教師はそういう状況の中で自身も育ってきたために疑問を持たなかったが、中には生徒が興味を持つ箇所は意味を説明する工夫をして飽きさせないことも必要と述べた人もいたようだ。

2012-10-12 18:15:46
@miohiroko

0437[藩校]漢学。授業は一斉授業ではなく、数人ごとに優秀な上級生が担当したり、教師が一人ずつ呼んでどの程度進んでいるかをきめ細かく確認する方式だったため、落ちこぼれなど考えられなかった。しかもその日の進む上限が決まっていたから、追いまくられることもなかった。

2012-10-12 19:03:38
@miohiroko

0438[藩校]漢学。生徒同士で教え合う互助の精神。これがやがてはそれぞれ一人前の藩士となり、常に立場と分をわきまえ、決して抜け駆けの功名に走ることなく全体に奉仕するという理解と責任感へとつながってゆく。広い教室に生徒を押しこめ、一方通行で時間に捉われる授業はやはり無理がある。

2012-10-12 19:07:31
@miohiroko

0451[藩校]漢学。素読は音読をすること。なぜ音読か。黙読だと分からない字や言葉を飛ばしてしまうのに対し、音読はごまかしができないからである。また、自分の発声を同時に自分で聞いて確かめることもできる。最初からそういうきまりがあったわけではないが、自然にそのような方法が広まった。

2012-10-13 10:57:46
@miohiroko

0452[藩校]漢学。先述のように、1回の授業における範囲は明確に決められていた。時間をかけて確実に覚えるため。能力には個人差があるが、平均よりかなり低い程度に合わせたようだ。とにかく江戸時代の教育は無理強いがまったくなかった。

2012-10-13 11:00:28