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L_O_Nihilum
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@L_O_Nihilum 【私見】最終的に生き残ったのは松田とニア 松田→マズダ→アフラ=マズダ→ゾロアスター教の最高神 ニア→ニーチェ? そして、それでもKIRA(神)を祈る者達がいる(崇拝者の女性が祈っている場面)っていう締めくくり(原作漫画)
2013-04-27 01:33:42![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
@kinginkeika ほ…法無ぅ…w まあニーチェのあの視点ニアに近い(NEAR)でしょうねw。
2013-04-27 01:35:51![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
想うとサイコパスって怖いな 狼はシビュラ一匹って扱いになってて、狼のボスであるシビュラが公安局に無数の狼を置いている。咬噛さんの名前ってどこかオオカミっぽいけどその辺まさに狼だったんだよね
2013-04-27 01:53:55![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
狼自身は潜在犯、つまり羊判定喰らってたのでどこまでもオオカミの毛皮ばかり被ってしまい本当の羊(=サバルタン、国民)の気持ちに気付く前にドミっちゃう だが、噺がガラリと変わった 狐がやってきたのだ 常守朱 彼女だ
2013-04-27 01:54:49![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
で、羊のなかにはホントに狐になって狼を化かしてやろうとする人が居た。これが槙島だ。まさに、狐の化け学校を彼は作っていた(学校の先生のフリしてましたね初期。ほら、おーりょーさん)
2013-04-27 01:56:06![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ふいに、この狐と狼が顔を合わせる、そして気づく、「お互い本当はどちらも狐なんだ」。「お前は槙島聖護だ」「お前は咬噛慎也だ」
2013-04-27 01:57:08![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
んで、どーなったんだっけ?狐が入ってきた、その狐、あかねちゃんがマッキー追いかける、けれど殺さなかった、でも狼さんは結局その狐を羊として殺してしまった。あと、宜野座が狐から狼になった。
2013-04-27 02:00:46![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
狐が狼を見守るまさに獅子になり、羊の皮をかぶった狐がそれを脱ぎ捨てて狼に退化した。監視官の朱と執行官の宜野座とはそういうこと。
2013-04-27 02:02:39![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
よく考えると、"橋渡し役"は多数派(狼と傍観者)からも少数派(羊)からも責められる可能性があるよなあ つまり、うまく橋渡しができなければ、その"橋渡し役"は孤立してしまう。
2013-04-27 02:58:01![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
傍観者の心理というのは、「私がどうせ助けても、また私がいじめられるから、それっていじめがなくなるってことではないよね。いじめの根本がなくならないのならば、私はいじめられっ子を助ける必要ないよね。」みたいな感じか・・・
2013-04-27 03:10:55![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
傍観者らはそれぞれが、いじめられっ子を助けなくていいという勝手な論理(彼らの中では合理的な論理)を導き出すということだな・・・ 助けなくていい理由は千差万別だが、結論は皆同じ・・・ これではいじめは放置される・・・
2013-04-27 03:14:14![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
傍観者もおそらく、生存本能が働くから、いじめを放置する・・・ つまり不作為だ 何もやらない 「何もやらなければ、私は悪くない」 ← おそらくそういうことを考える心理状態だろう
2013-04-27 03:16:53![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
それで、傍観者ら(狐)に対して、いじめっ子(狼)から命令されたら、傍観者らはそれに従う 「なぜなら、命令されたのだから、その通りにするのが正しいよね そうしないと私がいじめられる」 ← 傍観者(狐)の防衛本能(生存本能)が働く・・・
2013-04-27 03:19:53![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
"いじめ"は社会で生きていいたら(あるいはとあるコミュニティに所属していたら)一定数は必ず起こるものと、まずは認めることだな。そこから、いかに被害を最小限にとどめるか。 おそらくその方法論から入っていくべきなのかもしれない。
2013-04-27 03:37:14![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
ミルもニーチェも未完の哲学者なのだ。未完である事に魅力や味があるとは思わない。(後者についてはそう言う事も、注目し重視する点によっては可能かもしれないが)基本的には、彼らが未完である事は悲しく残念な事だ。無様な程に、軽蔑される程に、書きすぎる人間も、世の中には多数いるというのに。
2013-04-27 03:39:15![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
んー でもここで、「立ち振る舞う"べき"」というように、"べき"論を使うと、戒律を勝手に作ってしまうことになるなー これではいけないなー ぐぬぬ
2013-04-27 03:41:36![](https://s.togetter.com/static/web/img/placeholder.gif)
一つ言えるのは、多くの賢明ぶった人間は、しばしば自分が考えているよりもずっと、別に賢明ではないという事だ。帰結の操作を完全に行うというのは、人間には極めて難しい。ちょっと賢い程度の人間に容易に可能になるような事ではないのだろう。
2013-04-27 03:46:06