民主主義のススメ2

ですます調がでてきたのはご愛敬w またまた民主主義を考えますた
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shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

民主主義的資本主義の国家は、悪意を向けられない限り、そして交流という名の自らの都合良きビジョン(義)を通す方向性、それは人間が人間として本来持っている機能に拠って、いわゆる多文化との交流を図り、それを拒絶されない限り、大人しいものだ。

2014-02-19 09:02:22
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

民主主義が、人間機能を肯定するものであるならば、その人間機能における感覚は肯定され、自らの都合も肯定され、そのための方向性も肯定される。

2014-02-20 08:51:07
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

もしそこで恨まれる結果になろうと、その相手の恨みさえも肯定する。なので闘争になろうとも肯定され、かつその闘争により傷付き、闘争を嫌がることも肯定される。そして闘争がめんどくさいということも肯定される。

2014-02-20 08:53:15
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

皆が肯定された上で、その皆の方向性において、その皆が想定できる範囲を決めて、その中で生きていくことを誓う。なぜその想定できる範囲を決めるか、 人は変化を嫌うからだ。

2014-02-20 08:56:03
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

しかし想定した範囲での変化は許容できるゆえに、皆はその範囲で動く。しかし我々は想定した範囲をどこまで想定できたか?

2014-02-20 08:57:33
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

色んな状況、環境、事態において、その範囲の想定は複雑かつ、期限などが付き、自分自身の判断(変化する)を超えて、変化を与えられる(のっぴきならない状況に陥る)かもしれない。それをどこまで想定できるか、それはそうなってみないとわからない。つまり時間を掛ければわかるかもしれない状況を

2014-02-20 09:01:24
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

すぐに求められ、人の正しい判断を下す能力を超えることがある。 なので法律は作り続けられ、我々は常にその範囲において、判断できる材料を、何も決めていない人の判断を超える状況から、法律という範囲と指針をもって前に進む判断材料を手に入れることができた。

2014-02-20 09:04:26
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

我々はどこまで想定できるのか、

2014-02-20 09:05:23
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

もし皆が決めた範囲でなく、誰かが自らの都合のために決めた範囲を置かれるならば、それを納得するか、

2014-02-20 09:07:18
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

語弊がある、その都合が誰かを抑えつける悪意ある都合の場合はどうだろう。

2014-02-20 09:29:36
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

悪意とは、皆が持ってる人々の方向性を認めず、人の恨みさえも認めない。認めない故に、方法として暴力や殺戮を自明の如く使う。 その恨みさえも覚悟し、暴力を使用する人々とは真逆の意志。

2014-02-20 09:36:40
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

それでは、その悪意とは真逆の人々の感覚や方向性を肯定する我々について、話を展開してみよう。 つまりその我々の民主主義が多文化との交流において、どういう機能、流れを組むか、とくに日本の民主主義と米国の民主主義は違う。この違いについて認識する必要があるし、そして民主主義の機能に

2014-02-20 10:09:56
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

ついてよくよく見なければならない。

2014-02-20 10:10:10
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

民主主義は、人間の機能こそを肯定している。たとえば宗教においては人間の行為そのものや感覚そのものに制限を与えたりする内容がいくつかある。それが民主主義ではない、のだ。いや正しくは民主主義はその適用範囲が今は国家となっているが、その線引きは人それぞれともいえる。

2014-02-20 13:01:43
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

皆さまは映画リンカーンをご覧頂いただろうか、映画リンカーンでは、エイブラハム・リンカーンが奴隷解放を達成の下に合衆国憲法修正第13条を議会で通す伝記である。 「すべての人間は自由であるべき」とした大義をリンカーンは持っていたが、そのリンカーンより強くその義を信念としてもっていた

2014-02-20 13:09:14
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

その義を信念としてもっていた人物は、トミー・リー・ジョーンズ演じるタデウス・スティーブンス共和党議員でした。 合衆国憲法修正第13条を議会で通す為に、その大義を前に進めるために二人が対峙する

2014-02-20 13:14:13
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

タデウス・スティーブンス議員は、大義はあくまで「全ての人間は自由であるべき」という信念を曲げたくありませんでした。リンカーンはその大義に近づくために、「合衆国国民は、合衆国憲法の下、自由とする」、映画内でタデウスやリンカーンが強く想う意志を、段階的に進めようとするものでした。

2014-02-20 13:17:20
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

全ての人間は自由であるべきとするカタチと、法の下で自由では、意味合いが変わってきます。それは場合によっては、その法の下の自由において、悪意ある人々に利用される、武器として利用される可能性があるわけです。

2014-02-20 13:21:59
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

タデウスとしてはなかなかに引けないところ、それが映画ではその表情により楽しめます。

2014-02-20 13:22:56
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

私も、全ての人間は自由であるべきという大義ではなく、「自由」だと考えております。 しかし、それだと都合が悪い事があるのです、それはやはり国家だったり、そもそも民主主義がだれかれの都合も良しとする場合、皆が納得すれば、どんなに人間は自由と言っても、各個人が前に進む方法として、

2014-02-20 13:25:47
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

法の下の平等を手続きとして使用しているのならば、民主主義自体も「そうですね。」と肯定するだけなのです。

2014-02-20 13:31:11
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

それにより何が起こるか、人間の機能において自由に認識できる故に、共産主義、イスラム教など決まった箱の様なルールを許容してしまうのです。

2014-02-20 15:16:56
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

本来、人間機能が自由⇒民主主義や共産主義、イスラム教の許容⇒生活が成り立つのがどんなに足掻いても普遍の事実なのに。 リンカーンが妥協してしまった法の下の自由を認めることは、つまり 民主主義⇒自由を認める⇒生活というカタチになり、それを応用され、

2014-02-20 15:19:03
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

共産主義⇒自由を認めず⇒生活もカタチとして、流れとしてその歪さが認められますし、かつ人間自体がそれに対して、ある程度許容して慣れる機能を持ち合わせているのです。

2014-02-20 15:20:10
shakauryauei_ha @JO_JO_t_kaoru

それにより、一部の権威者その人間機能を利用して、圧政を敷くことも「できる」のです。

2014-02-20 15:20:41