最近の探求2.0切り抜き、自分用
- sunamajiri
- 1334
- 0
- 0
- 0
あえて比較すると、超越論哲学の挙句、結局、哲学者を哲学するhttps://t.co/fUI8s48Dv8 という日本の哲学部の伝統に対して、アメリカの超越論が緩い哲学研究は、哲学者を対象とするより、アプリオリ問題を対象に思考しているところが違和感がない、ということなのかしらね。
2014-03-15 11:44:50アメリカの哲学部は、超越論でガチガチの日本と違って、こういう話ができるのかもね。たとえばカント~ハイデガーで、アリストテレス神学を自然学にエポケーするから、デカルトが特異点のようになるけど、アメリカそういうのなさそう。そこは面白い。https://t.co/MY7S4O1ayd
2014-03-15 11:33:34先ほどのお話はどの論文あたりのお話でしょう?(^-^)/ @shinjike Roger AriewのCV http://t.co/FKMEqpHuPU … ごごごご・・
2014-03-15 11:17:21おもしそうですね。@shinjike デカルトの体系的な哲学は、スコラの包括的な拒否であるというのが17世紀の伝統的な説明だったけど、現在では、デカルトがなしたいくつかの変更は、アリストテレスに内在する古い困難との格闘によって、すでにスコラ学者らによって行われていたとAriewも
2014-03-15 11:15:32そう、哲学者の研究しかしない、それこそだが、第一哲学のように神の研究をしない。それを哲学者とは言わないw アタリマエのことだw(^-^)/ https://t.co/O2NVtJsVBI
2014-03-15 06:53:09首相も最近官房長官と同じ表現をしましたが、見当外れです。挙げるなら井上達夫氏あたりの名かと愚考。が、日本の哲学は全般的には「哲学者についての研究」ですね…。RT @alfayoko菅官房長官の言うとおり、長谷川三千子如きが「日本を代表する哲学者」だとしたら、日本の哲学のレベルって
2014-03-15 06:48:56菅官房長官の言うとおり、長谷川三千子如きが「日本を代表する哲学者」だとしたら、日本の哲学のレベルって。。。w RT @hori_shigeki 日本の人文系・思想系の研究はいったい何をもたらしてきたのかなあ?と思う。
2014-03-15 06:32:23とはいえ、この存在者の動性は隠蔽しておかないと不都合なことがある。斎藤氏のハイデガー批判も、ハイデガーがそれに至るために、対話・エロス・倫理を純化させ、独我論のようになったと指摘している。それをどう回収するのか、じっくり読んでワクワク感を持続中です。@estei_st
2014-03-15 06:22:33私が漠然と、ただし明確に一点だけ関心があるのは(それ以外どうでもいい)、ハイデガーがアリストテレスから抽出する自然動態存在者を看過すると、近代の重力の発見がギリシャ自然学を魔術と意味化して、予備校文章術の山本義隆氏に異端神学を語らせてしまう、ということだけです。@estei_st
2014-03-15 06:10:25ハイデガーによるアリストテレス批判を明確化させた上で、それがこれまでそのように受け止められなかった原因である、ハイデガーの言葉足らずを補うことに成功しているかという点、つまり解釈学的な問題としてみるなら、原注で列挙された海外の研究より、到達度が高いようにみえる。@estei_st
2014-03-15 05:51:39(続)よくハイデガーを読んだことのない人に向かって、斎藤氏が批判するように近年の読みの中心だった実践哲学として啓蒙すると、受け取りが真逆になるというパラドクスのようなものを散見する気がするのだが、おそらく、そういう誤解の余地のない方法を提示しているようにみえる。@estei_st
2014-03-15 05:43:25なかなかスリリングですよ。ハイデガーがどのような方法でアリストテレスのどの点を批判し、それゆえに何が主著の未完という不足な問題となったのかを、内在的に言い当てている。@estei_st
2014-03-15 05:40:38おお、まさに、ハイデガーが転回させようとしているフォアゾクラティカーの神観は船長ですね。http://t.co/p3KdhYDPsa 斎藤氏はハイデガーがこの「不動の神」を「自然の動者」に解釈学的転回をすることで超越論を得ようとしている、と論じているようなのだが。なかなか面白い。
2014-03-15 05:27:43ええ、つい「宗教は死んだから、生死にリアリティーがなくなった」という死生観の変化をいいたがりますね。あれは不思議です。生死がおかしいから宗教が死んだように見えるとか、どこかで転倒している気がする。しかもその転倒は大して困難な問いにも見えない。@estei_st @J_J_Kant
2014-03-15 00:02:01もちろんそう思っています!ここではカントさん批判ではなく、私たちのほとんどがどうしてもそのような形式の問いを発してしまう、ということについて、@sunamajiri J_J_Kant さんは前者でしょう。@J_J_Kant
2014-03-14 23:58:22ハイデガーにとって第一哲学は、被制作性から自然の動態を取り戻すことのようですが、しかしその営みは、私達が宗教と呼んでいることと、さして変わらない。その点で、他の宗教的方法がある、という事自体が危ないですね。しかし、@J_J_Kant さんは前者でしょう。@estei_st
2014-03-14 23:50:03そのアリストテレスでは不十分というのがハイデガーの見解のようですね。ただし斎藤氏はそれだけでも不十分と論じていて、私もそれには同意している最中ですw@estei_st ええと、分かりません(笑)。アリストテレスは、可能態(デュナミス)に対する現実態(エネルゲイヤ)の優位でしたか。
2014-03-14 23:46:53あくまでも問いの形式としての話だが、このリアリティの回復を「方法化」することは出来るだろうか。おそらく出来るのだが、まさに神も仏も死んだ後(宗教が無効化)した後の「方法化」が危険なことは、かつての某新興宗教が示した通りだ。
2014-03-14 23:38:42全くそのとおりですね。ここで死というのも、第一哲学を二重化させる被制作性の神学から、存在の動態をとりだす解釈学的転回にとって、そうした事実性に対する可能性が超越論的転回として要請される、ということにすぎないのでしょう。@estei_st ねに事実性に対する可能性の優位
2014-03-14 23:32:37また、カントさんの「神も仏も死んだ後で死生のリアリティをどう回復すれば・・・」に関して、ほとんどの人がもちろんこのように問うだろうけれども、実はこのような問いの形は危険であると思うのだ。
2014-03-14 23:30:09死を試みること、自死などは死を可能性ではなく事実化することであり、死の先駆とは全く関係がないとされる。そもそも実際に死んでしまえば存在了解が不可能になるのだから。このことに限らず、ハイデガーの主著ではつねに事実性に対する可能性の優位が言われている。
2014-03-14 23:19:25大本さんとカントさんとの議論に乗り遅れたのでこちらで。大本さんの「おそらく、ハイデガーは先駆を様相可能性理論としては語っていない」はまさしくその通りで、死が本来性の契機となりうるのは、あくまでも死が現存在の究極の「可能性」だからであり、実際の死に方を忖度すること、
2014-03-14 23:13:58読書タイム。斎藤博論第5章第4節は、存在と時間の超越論性。第一哲学と神学の二重性、神学を神学にしてしまう「不動の動者」を「動くもの」としての「自然」に直感させる超越論的転回は、解釈学的遡行による善のイデアの洞窟の比喩のエロス的拡張としての愛だ、となっていた。
2014-03-14 11:23:20つまり、ハイデガーが重視する世間話をプラトンが契機としていたように、匿名になると世間話が全開になるんです。しかし、それを世間話のまま受け取ると、初期の2ちゃんねるにはなかった、世間話の衰退としてのヘイトスピーチになる。政治も世間話を契機に弁論を生成できない。@ujikenorio
2014-03-14 05:16:38