中世パン図鑑

毎晩寝る前に1ツイートでお知らせする中世ヨーロッパの各国のパン事情を、まとめました(定期更新予定)。 2015年6月7日最終更新 【目次】 中世フランスのパン図鑑 続きを読む
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pic1:Wood Stack Holzstapel PD
pic2:Medieval oven 1400 by Vrangtante Brun CC BY-NC 2.0
pic3:Woodcutters fell trees for building ships. Detail of the Bayeux Tapestry – 11th century by special permission of the City of Bayeux via The National Archives U.K.

 窯にとって最も重要なのは燃料である。当時は木材、即ち薪が使われた。
 
 ブナ、カシは高価な木材で王が相場をしばしば統制した。

 パリにはイオンヌ川、マルヌ川の流れを利用してブナ材がいかだで届けられた。
 
 裕福なパン屋は大量の木材を貯蔵していた。
 アミアンのあるパン屋は、貯蔵庫に3コルド分の丸太の薪、町の中の穀物倉に6000本のたきぎ、パリ貨52リーヴル相当の燃料を貯蔵していた。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 パンを焼く 火入れから最適温度の250度まで2時間かかった。大きな生地を奥に小さな生地を手前に置き、蓋をして焼き上げまでの時間は職人のカン頼りだった。早すぎれば生焼け、遅すぎれば焦げた。焦げパンはそれ専門の店で売っていた pic.twitter.com/oOgkf0FwwI

2015-05-03 22:35:50
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pic1:7-alimenti,pane,Taccuino Sanitatis, Casanatense 4182 PD
pic2:2008-08 archeon bäckerin by Ziko CC BY-SA 3.0
pic3:bauernbrote, breads, selberbacken PD

 全く冷めた状態から250度になるまで二時間かかったが、一端温まると余熱がなかなか冷めないため、次のパンを焼くまでのインターバルは30分ですんだ。

 焼き上げのカンを身に着けるまで相当な時間がかかったと思われる。

 窯をあけるのが早すぎるとふくらみがたりず、乾きが悪く水っぽいパンになる。

 窯をあけるのが遅すぎると、硬く干からび、軽くなりすぎる。酷い時には焼け焦げてしまう。

 15世紀パリにはこの焼け焦げパンを売る場所がイノサン墓場前、ノートル=ダム寺院近くの2箇所にあった。

 下の動画では、フランスの有名なパン職人ニコラ・サピオ氏による昔ながらのパン作りの風景を見ることができる。

 大きなこね桶でパンと水とパン種を混ぜて生地にし、薪で火をおこしおきを掻き出して掃除し、パン生地を入れて焼く様子を見ることができる。

パン屋以外のパンづくり

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 農村のパン窯 農民達は週に1,2回自分でこねたパン生地を共同のパン窯に持って行き村のパン職人に焼いてもらった。ライ麦の混ざった黒パンや栗粉のパン等が作られた。使用料は25個につき一つ現物が焼かれる前に徴収された。 pic.twitter.com/iTFm2KnWwM

2015-05-03 23:58:34
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pic1:Medieval oven 1390-1400 by Vrangtante Brun CC BY-NC 2.0
pic2:Making flatbrød in 1904, Norway - illustration PD
pic3:maroni, sweet chestnuts PD

 中世ドイツの村のパン職人は、自らも土地を耕す半農半工の職人だった。村のパン屋は各家を回りパン種とこね桶を提供した。
 
 村人がそれぞれ生地をこねると、村のパン職人は馬車でやってきて生地を預かり、焼き上げたあとまた各家に配達してまわった。

 その際、粉ひき職人を監視するのと同様に村人はパン職人が不当にくすねないか監視して回った。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 都市住民のパン焼き 南フランスのつましい家庭では自宅でパンを焼いていた。フランス以外では暖炉やストーブで焼く事も多かった。パン屋に比べてパン種や膨らませ方が悪く、窯の性能から十分に焼けてなかったと考えられる。 pic.twitter.com/2IU3haOCPS

2015-05-04 00:16:35
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pic1:Medieval kitchen fireplace © Copyright Richard Croft and licensed for reuse under CC BY-SA 2.0
pic2:Jean-François Millet パンを焼く女 PD

 家屋内でパンを焼く施設については、その地方の気候風土に影響される側面がある。

 即ちギリシャ、イタリア、スペイン、フランスなどのヨーロッパ南部やドイツの一部では、薪の直火を使う暖炉。
 東欧、北欧、ロシアなどの北部、スイス、オーストリア、ドイツなどの山に近いところなどはストーブが普及していた。

 暖炉では、直火で焼いたり灰をかぶせて焼く方法が取られた。また串に生地をまきつけ回しながら焼く方法も取られた(今日で言うバウムクーヘンの原型)。

 一方で、ストーブのある家ではストーブ内部にパン窯のような空間がありそこでパンを焼き、また煮炊きもしたと感がられている。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 修道院のパン①製パン室 どの会派の修道院も専用の製パン室を備えてた。ベネディクト派ザンクト=ガレン修道院は食堂に接する製パン室と窯が9世紀の設計図に描かれている。一方シトー派は修道院とは離して水車の近くに製パン室を設けた pic.twitter.com/VC9Yz8Bubz

2015-05-04 10:31:46
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pic1:Convent of St Gall by Roland Zumbühl of Picswiss as part of a cooperation project. CC BY-SA 3.0
pcic2:Pianta dell'abbazia di san gallo, 816-830, san gallo, stiftbibliothek PD
pic3:New Clairvaux, Sacred Stones by © Frank Schulenburg CC-BY-SA-3.0

 都市住民が次第に自家製パンを作らなくなり店で買うようになるのに対して、修道院では中世から長く自家製パンを作る伝統を守り続けている。

 パンはキリスト教における儀式では(ローマ・カトリックの場合無醗酵のパン、ホスチアとして)必須である。

 その一方で修道士達の日常の糧としても重要であった。

 そのため、製パン室が何らかの形で設置されていたようである。

 当時のザンクト=ガレン修道院の設計図によると、食堂は回廊南にあり隣に厨房、厨房から屋根のついた廊下伝いに南に製パン室、パン窯、ビール醸造所があった。
 更に先には穀物庫と手回しのひき臼があったようだ。
 

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 修道院のパン②様々なパン 12世紀クリュニー会では祝日にのみ白パンを食べ、シトー会ではあまり篩ってないパンを常食し白パンは病人、老人、子供が食べた。カルトジオ会ではオート麦パンを常食し特別な時は小麦のトゥルトを食べた。 pic.twitter.com/NlqV9JRe1z

2015-05-04 10:49:34
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pic1:San Hugo en el Refectorio by Francisco de Zurbarán PD
pic2:Bread Market Beakery France PD
pic3:[La Grande Chartreuse:null]][ by Floriel CC BY-SA 3.0

 それぞれの修道会では戒律に従いある種のパンを修道士が口にし、ある種のパンを施しとして配っていた。

 トゥルトはTourteと綴り、ふるっていない粉で作ったパンをさす。かなり古いパンの呼称のようである。パイ料理や亀も意味する。おそらくその形状を現す単語なのかもしれない。

 焼き菓子のトルテはtarteとつづるので異なることが分かる。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 城付きのパン職人集団 城塞が居住性が向上し普段から王や貴族が住むようになると、館内で毎日大量のパンが生産された。パン係は賄い役だが位は高く穀物調達、製粉から、パンを焼いて供給するまで全責任を負い独自の製パン室もあった。 pic.twitter.com/3H1TtZb2kv

2015-05-04 11:06:01
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pic1:15th century French banqueting PD
pic2:Clos Lucé castle - Kitchen by Ceridwen CC BY-SA 3.0
pic3:Kuchenmaistrey PD

 居住性が向上し、防衛設備としてだけでなく居住スペースにもなった城や貴族の館は、当時の社会の縮図とも言えた。

 主とその家族や親族、奉公人や役人、軍人以外に、賓客や施しを求める人々、庇護すべき人々、多くの職人や手伝い人、猟犬や家畜など様々な人々や動物が一緒に住んでいた。

 そのため求められるパンの量は膨大になり、当然専用のスペースとチームが用意されていた。

 今日ではパン屋を意味するブーランジェリーとは、元々この城付のパン作り組織を意味していた。

 パンづくりを一手に任されていたパン係は多くの作業部隊を抱えていた。

 フランス王国の宮殿では、6つある賄いの部署(酒、肉、魚、きゅう舎、燃料係)の中で最上位の扱いを受けていた。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 城の製パン室 多くの城では厨房とは別に製パン用の窯と部屋を用意していた。 1502年のガイヤール城の築城計画には生地をこねる部屋、パイを作る部屋、大きな窯、小さな窯、パン職人の部屋の5つの製パン室があった。 pic.twitter.com/43XRNHMcjN

2015-05-07 19:07:33
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pic1:Château Gaillard (Les Andelys), vu du ciel by Sylvain Verlaine CC BY-SA 3.0
pic2:Plan.Chateau.Gaillard PD
pic3:Limbourg brothers - Les très riches heures du Duc de Berry - January (detail) - WGA13017 PD

 ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿が作成させたガイヤール城の設計図には、南部の長い翼の1階部分の5部屋がパン専用の部屋とされていた。

 真ん中に奉公人用のホールと厨房があり、パン用の部屋は別室になっていた。小さなパン窯つきの2つの部屋はそれぞれ生地を練る部屋とパイをつくる部屋。大きなパン窯の部屋。そしてパン製造人の部屋である。

 多くの古い城館では、中心となる居館の向かい側に壁面ぞいに製パン室、貯蔵庫、物置が並んでいた。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 パンづくりの奉公人 専属パン職人は王侯貴族のみではない。中世末期トゥールーズの多くの市民は自ら専用の麦畑を所有し、さらに名士などの富裕層は奉公人にパンを作らせていた。他都市では生地だけ家でつくらせパン屋で焼く事もあった。 pic.twitter.com/w1BT1viQkO

2015-05-07 19:20:40
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pic1:Toulouse toits by Nicolas Fleuré CC BY-SA 3.0
pic2:Nuremberg chronicles f 71v 1 PD

 国王や城持ち貴族以外でも、一部の都市住民、都市貴族、小貴族などもパン焼きの奉公人を雇っていた。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 契約パン屋 奉公人を雇うのではなく店を構えたパン屋と年間契約する事も多かった。1403年アルルの商人ピエールは公証人を介して女性パン屋クレマンスと契約し先に小麦を私毎週960個のパンを受け取った。他都市でも多かった。 pic.twitter.com/o1qtkvy4jQ

2015-05-07 19:40:57
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pic1:ArlesGuibert PD
pic2:Tacuinum sanitatis 9333 62v PD by BnF

 女性パン職人クレマンス・ジュリアンはピエールとの契約後即座に向こう1年分のパン用の粉172スティエを受け取り、この麦でピエールの所有する農地の従事者及び牧羊人合計16人にいい色をしたパンを毎週960個供給していた。
 
 また家人達が食べる白パン「パン・ドゥ・ブーシュ」の製作契約もすすめていた。
 
 商人ピエールが契約交渉中に若くして亡くなった後も、後見人を介して契約を継続し、白パン製作用の粉を受け取っている。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 騎士団のパン職人 当時多数の領地を持っていた騎士修道会も自前のパン職人を抱えていた。契約職人は家人、奉公人、飼犬全てのパンを焼く。職人は修道騎士達と同様小麦のパンを食べられたが領内の農民はライ麦か混合麦のパンを食べていた pic.twitter.com/EAtQNhwjjX

2015-04-09 00:07:15
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pic1:Almourol 034 by IGESPAR databas CC BY-SA 2.5
pic2:Knights hospitaller PD
pic3:Bakermiddleages PD

 トランクタイユにある聖ヨハネ騎士修道会の騎士領の長は、アルルの女性パン職人フレスケート・リカールと契約した。

 契約で、長とその家人、奉公人、飼い犬に必要なパンを焼き、さらにリクエストがあればパイやフランを作った。

 雇われたパン職人達は、貴人達と同様白いパンを食べることができた。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 パンはいかが?! 都市の大多数はパン屋でパンを入手した。当時はhôtel(オテル)と呼ばれ現在使われる「ブーランジェリ」という呼称は王侯貴族など富裕層の建物内の製パン室を指す。また当時の小売業は数が多く地位も高かった。 pic.twitter.com/IfgVXA7v2E

2015-05-07 19:53:23
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pic1:The Baker, circa 1681, by Job Adriaensz Berckheyde (1630-1693) - IMG 7331 PD
pic2:Le Décameron-baker PD

 人々の日常の糧であったパンを作るパン屋(オテル)は町のあちこちにあった。
 
 現代のウィンドーから見えるような広い店内があったわけではなく、小さな売り窓と言われる台に焼きたてのパンを並べ、焼き立てと同時に角笛を鳴らして焼けたことを知らせていた。

 このようにして、中世のパンは様々な過程を経てパン職人によって焼き上げられ、人々の口に入り生きる力をつけていたのである。

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