結城秀康は「かわいそう」か?人質時代から病没までを追ってみた。

ネット上には結城秀康の逸話・推測・妄想ばかりがあふれているので、史料や本に基づいた情報を集めてみた。更新(7/28):人質時代から病没まで完了。秀康の動向を追加。
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アリノリ @a_ri_no_ri

晴朝が家康に願い出たと記す史料は不明。しかし、直基も晴朝没後に結城を捨て、松平を名乗る。直基の系統は辛うじて結城の家紋と祭祀を受け継ぐだけであった。晴朝は結城家のために朝勝を宇都宮家に戻し秀康を養子に迎えたが、結城は「家」として存続したと言えるのか?さて?

2018-07-28 12:52:33
アリノリ @a_ri_no_ri

最後に秀康が自分の立場をどう思っていたか、について推測できる書状をあげておく。慶長11年カとされる本多忠政宛の2通の書状である。忠政は本多忠勝の息子で室が家康の孫熊姫(信康娘)である。忠政の自筆の書状に秀康が返事を出している。この2通の書状には花押があり、腕が痛いとの断りがない。

2018-07-28 12:53:02
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は忠政に「一段之御分別之通、御たのもしく忝候、神八幡何ニて御懇之御心中をふうじ申候ハん哉と存迄ニ候、御父子や我等やうなる物をは、せけんよりそねミ申ものニて候間、好々御心持専用ニ候」と返事をする。忠政は何らかの心中を秀康に明かしていたようだ。

2018-07-28 12:53:20
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康の返答に「(本多忠勝・忠政)父子や私のような者は、世間から妬みを言われるものであるから、よくよく心持ちを専念?しておいたいいです」と自分たちは妬まれる立場であると書いている。忠政は熊姫を通して徳川に連なる。秀康は自分や徳川関係者に対する世間の目を分かっていたのだろう。

2018-07-28 12:53:42
アリノリ @a_ri_no_ri

ここで注目したいのは、秀康が自分の立場を「ねたまれる」と認識している点だ。彼は「兄なのに将軍になれなくてかわいそう」とよく言われる。しかし、秀康は自身を「かわいそう」どころか、他者から「ねたまれる」と思っている。こう書けるのは、他と比較して己は恵まれていると理解しているからだ。

2018-07-28 12:54:02
アリノリ @a_ri_no_ri

弟で将軍の秀忠と比較すると、秀康の立場が劣って見えるだろう。だが、68万石は前田家に次ぐ2番目の石高であり、従三位権中納言は徳川家一門の最高位、これに伏見の留守居、朝廷対応が加われば、秀康は家康・秀忠に次いで、日本で3番目の権威と権力を有することになる。

2018-07-28 12:54:25
アリノリ @a_ri_no_ri

この権威は大きな戦功や実力があったから手に入ったものではない。家康の息子だから、秀康も秀忠もその地位に就けたのだ。秀康は病を押してでも伏見の留守居を果たそうとし、存命中、ただの一度も秀忠の地位を脅かそうとはせず、庶兄としての己の身をわきまえ、徳川家を支え続けた。

2018-07-28 12:54:42
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は乱暴者のような逸話があるが、実際は己の立場への分別が十二分にある人物なのだ。忠政への気遣いもできている。そういう人物でなければ、家康が越前68万石や伏見の留守を任せたりはしなかったろう。同じ慶長11年カとされるもう一通の書状では、病であった忠政の回復を喜んでいる。

2018-07-28 12:55:01
アリノリ @a_ri_no_ri

忠政の回復に安心しながら秀康は続ける。「むなしく御くちはて候ハん様、せいせいせうせうのくがいをは御すて、たヽ命の御やうせうかんえやうニ候」と。「虚しく死んでしまわないように、できるだけ少々?の耐えない苦しみ(病のことか?)を御して、ただ命の養生が肝要です」という意味だろう。

2018-07-28 12:55:29
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長11年?と比定される2月、3月あたりの書状では花押が書けているが、秀康も病は完治していない。病が治った忠政に向ける言葉は自分への言葉でもあったのではなかろうか。虚しく死にたくない。当たり前だが、秀康は死にたくなかった。

2018-07-28 12:55:47
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康は実年齢33歳で没した。彼が長く生きていれば、忠直が若年で後を継ぐことはなく、越前騒動は起きなかっただろう。秀康は伏見にあって朝廷や豊臣を含む西国大名に対応し、秀忠は江戸で東国大名を支配し、家康は駿府で外交と寺社対応にあたりつつ、息子達をサポートしただろう。

2018-07-28 12:56:03
アリノリ @a_ri_no_ri

恐らく、これが慶長10年頃に家康が想定していた幕府の初期形態だった。毛利輝元の息子と秀康娘の婚約も、秀康が西国大名と関係を深める第一歩であった。しかし、慶長12年3月に忠吉、閏4月に秀康を家康は相次いで喪う。長く生きたために、家康は存命中に子の半数を見送る羽目になった。

2018-07-28 12:56:20
アリノリ @a_ri_no_ri

『鹿苑日録』の6月5日に「大御所様御機嫌甚以難窺之、是亦無餘儀、両所迄捐館之上者、御愁嘆不及言語」とある。大御所は家康、両所は忠吉と秀康を示す。「家康様の機嫌を窺うのが非常に難しい。これはやむを得ないことである。忠吉様と秀康様まで亡くなられたのだ。嘆きは言葉にならないだろう」

2018-07-28 12:56:45
アリノリ @a_ri_no_ri

ここで、最初の「1.父親に愛されなかった」に戻る。秀康は最後まで徳川のために尽くしていた。「父親に愛された」から尽くしたのか、「愛されなかった」から頑張ったのか。そこは分からない。ただ、一次史料や実際の行動を調べもせず、それらを無視して創作に近い「逸話」を信じることはできない。

2018-07-28 12:57:47
アリノリ @a_ri_no_ri

何故なら、「逸話や家譜」の結城秀康は意図的に誰かが「作ったもの」だからだ。秀康年譜の間違いを度々指摘したように、子孫が残した史料は先祖を飾り上げて「装飾」する。秀康は九州では「後詰」、葛西大崎一揆、関ヶ原でも一度も戦っておらず、武勇に優れた事実は全く確認できない。

2018-07-28 12:58:08
アリノリ @a_ri_no_ri

だのに、年譜や逸話は秀康の武勇や粗暴を強調する。関ヶ原における対上杉での対処や没後に御家騒動が起きることから、秀康が優れていたのは理性と統率力であると思う。関ヶ原でも越前でも、秀康は出身地がバラバラで多様な家臣らを上手くまとめあげていて、問題を起こさせていない。

2018-07-28 12:58:23
アリノリ @a_ri_no_ri

武勇や粗暴さが強調されるようになったのは、家康の息子で戦経験がありながら活躍していないではカッコがつかないからと、息子忠直の不行跡からであろう。必要性や結果から秀康像が形成された可能性がある。ただ、秀康の武勇がダメダメであったら、伏見の留守や家康の護衛も任されなかったとも思う。

2018-07-28 12:58:37
アリノリ @a_ri_no_ri

実際の「結城秀康」がどんな人物だったのかは、誰にも分からない。それでも、当人や父、弟や当時の人達が書いた書状や日記から浮かび上がるものはある。そして、それがどうにも逸話とはほど遠い人物像に思えた。一次史料から見えて来る「秀康」はどんな人物であるか。

2018-07-28 12:58:53
アリノリ @a_ri_no_ri

それがほんの少しでも掴めればいい、と、今回、まとめをつくってみた小説やゲーム、漫画、逸話などの「娯楽用につくられた結城秀康」ではなく、「実際の結城秀康」が僅かでも垣間見れればいいと思う。

2018-07-28 12:59:06
アリノリ @a_ri_no_ri

*使用史料・本:大日本史料、言経卿記、慶長日件録、家忠日記、多聞院日記、板坂卜斎覚書、徳川家康文書の研究、豊臣秀吉文書集、結城秀康の研究、近世初期大名の身分秩序と文書、羽柴を名乗った人々、下総結城氏、福井県史、福井市史、秀康年譜、幕府祚胤伝他

2018-07-28 12:59:40
アリノリ @a_ri_no_ri

便宜上、秀康を「結城秀康」と記し続けたが、越前に移った後は「結城」を使用せず「越前」しか用いないため、結城を名乗り続けていたか不明である。嫡男の忠直が「松平」を使用し、結城を継いだ直基も「松平」にしてしまうので、秀康も結城ではなく「松平」を称した可能性はあると書いておく。

2018-07-28 12:59:57
アリノリ @a_ri_no_ri

徳川家康・秀忠の上洛(=京都着)・下向(京都出立) ari-eru.sblo.jp/article/115380… 『舜旧記』の記述から、慶長7年の秀康の上洛月を7月から5月に修正しました。

2019-01-27 12:57:39
アリノリ @a_ri_no_ri

結城秀康に関する史料 その1〜その5まで。ari-eru.sblo.jp/category/44685… 逸話の情報ばかりがネットにあるので、一次史料を中心に集めてあります。ある程度、訳と解説は付けておきました。

2019-01-27 13:11:58
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長7年に秀康が豊国社を参詣していることが分かる史料を追加する。

2019-04-19 21:06:43
アリノリ @a_ri_no_ri

『舜旧記』によれば、慶長7年5月27日に秀康は豊国社(秀吉を祀る神社)を参拝している。 「今日三河守殿依社参、二位卿俄豊國へ越也、予脚気ニ足痛故不参、次三河守殿奉納、銀子五枚、二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也」 三河守が秀康で、二位卿は吉田兼見、予が筆者の梵舜である。兼見と梵舜は兄弟。

2019-04-19 20:48:42
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