数学の哲学は何をなしうるか。
RT @kkjts 数学の哲学の人への質問。定理とその証明を与えることができ、さらにまた、新たな公理体系とその内部での定理を生成することもできる機械ができた場合、その機械の仕組みを記述すること以上の哲学的な問題は何だろうか?
2011-05-05 17:46:32そもそも「その機械の仕組みを記述すること」がまったく哲学的な問題」に思えないんだけど……。http://bit.ly/lZLAZD
2011-05-05 17:54:42もしそうした機械が、その内部構造はブラックボックスのまま与えられてると考えられているのだとすれば、事情はいまとまったく変わらないような気がする。つまり、内部構造のまったく分からぬ「人間」が、日々定理を生産し、ときには公理を設定して数学的営みを積み重ねているのだから。
2011-05-05 17:57:48@shinjike えーと、要するに、「説明書の訓詁学としての役割以外のことを哲学はできるか?」ってことなんでしょうか? だとしても、「余裕でできる」としか思わないなあ。まあおそらくは「哲学的問題」ということについて、捉え方がちがうのかもしれません。
2011-05-05 18:04:39@t_hayashi たぶん、そういうことでしょうね。わたしは、哲学的問題ないし哲学ということで、誰もが合意するような外延も内包も不確定だと考えていますので、そこら辺は流しました。
2011-05-05 18:09:00@shinjike あと、そういう機械があったにしても、現在「数学の哲学」の呼名のもとまされていることの多くは依然として有意味になされうる、と思うんですよね。つまり、そういう機械があろうがなかろうが、数学の哲学の大勢に影響はないような気がする。
2011-05-05 18:17:33@kkjts なるほど、「機械」ということで神経回路網系を想定されていたのですね。了解です。いま手元にiPhoneしかなく、込み入った返答がむずかしい状況にあるので、いまはご意見を伺わせてもらって、明日あらためて、そうしたご意見にかんしてのぼくの見解を述べさせていただきます。
2011-05-05 19:40:37@kkjts いまざっとTLをたどってみました。何やらずいぶんと話題は多岐にわたってきているようですが、とりあえずはぼくが反応した最初の問題に定位して、意見表明を試みます。
2011-05-06 16:38:02@kkjts まず、容易に思いうかぶのは、「公理設定および定理生成器」としての神経回路網の挙動が分かったにしても、それをもって「数学とは何についての学問か」という問への答えが十全に与えられるようには思えない。
2011-05-06 16:39:43@kkjts もちろん、素朴に言えば、数学とは「数」についての、あるいは「数と数の関係」についての学問である、このように言えるようには見えます。
2011-05-06 16:42:06@kkjts しかし、「数」とは何なのでしょう? 人間がでっちあげた仮構物なのでしょうか? それとも、われわれの存在とはべつに、何か「数学的存在者」が存在するのでしょうか? ぼくには、「公理設定および定理生成器」の挙動が明らかになったにしても、この問は残余するように思われます。
2011-05-06 16:43:55@kkjts さらに、kkjts さんは、「公理設定および定理生成器」以外に、言うなれば「直観」のような機能も、神経回路網系に還元可能であると考えておられるように思われる。おそらくは、こうした「直観機能」は、ゲーデルの定理に対応するために設定されたもの、かもしれません。
2011-05-06 16:46:50@kkjts よく知られるとおり、ゲーデルの不完全性定理第一によれば、算術を遂行できる形式系には、その肯定も否定も証明できないような命題が必然的に含まれることが知られています。さらに定理第二によれば、そうした命題には系の無矛盾性命題も含まれている。
2011-05-06 16:50:33@kkjts つまり、形式的記述あるいはそうした手続きだけでは数学における「真なる命題」は覆い尽くせない。しかしながら、数学者あるいは論理学者はときに、そのような形式体系内での証明可能性をすっ飛ばして、一足飛びに「真理」にいたることがあるように思える。
2011-05-06 16:54:20@kkjts さらには、そのように「一足飛び」にいたられる真理は形式系内では決定不能な命題のそれであるかもしれない。しかし、そうした「一足飛び」が現になされ、そして、それが妥当なもの(いたられたものがじっさいに「真理」である)のなら、それも神経回路網モデルで記述できるはずである。
2011-05-06 17:01:43@kkjts そのようなことを kkjts さんは言っているように見受けられましたが、ぼくには、「公理設定および定理生成器」と「直観」とが、おなじフレームワーク内でモデル化できるようには思われない。
2011-05-06 17:08:44@kkjts つまり、そうした「直観」もまた、そうした機能を実装する神経回路網系の働きとして、ある数理モデルによって表されざるをえない。とすると、そうした直観はすでに形式系に埋め込み可能であり、ゆえに、そこには決定不能問題などそもそも存在しないことになる。
2011-05-06 17:10:31@kkjts さらには、かりに「直観」なるものがモデル化できたとして、それの「正しさ」がそのモデル内で担保されるようにも思えない。つまり、ふつう直観というのは当たったりまちがったりするわけです。そして、無謬たる Truthin の存在仮定は、いささかつよすぎるように思える。
2011-05-06 17:12:05@kkjts もちろん、じっさいにそのようなホルモンが存在するかもしれない。あるいは存在しないかもしれない。それはぼくには(いや、現在のところ、誰にも)分かりません。
2011-05-06 17:26:10@kkjts さらには、たとえば平行線公準のような、ながらく「絶対唯一の真理」と目されておりながら、ある時点を契機にその地位を失うという事例について、Truthin 仮説は無力なようにも思われる。
2011-05-06 17:29:28@kkjts 以上、いささかとっ散らかった、さらには、議論の大枠を保持せんがためにところどころ論点が単純化されてはおりますが、以上がぼくの大略の見解であります。
2011-05-06 17:32:00かりに公理を設定しそれに基づいて定理を証明するという働きおよびそのような手続きに還元され得ない「直観」を神経回路網モデルに落としこむことが可能であったにしても、「哲学がそうしたモデルの成立後なにをすべきか」についてはじっさいそうしたモデルが提出されてから考えればよいのではないか?
2011-05-06 17:42:19