秀吉の中国大返しから始まった行軍速度の話

一日46㎞という行軍速度は強行軍なのかそうでもないのか、という話。ローマ軍団やナポレオン軍などの例も出つつ、でもその軍勢の規模や装備、道路の状況によっても左右されるから簡単には言えないよね、という話とか。
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アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri 徒歩で付き従った家来が伏見到着後に死亡。間接的な秀次事件の被害者となる。通常の1日の移動距離は出発して4日間は続けていた東京〜横浜〜横須賀〜小田原〜三島までの約30~35kmである。三島で秀吉からの書状を受け取り超高速移動スタート。

2016-04-05 18:38:50
アリノリ @a_ri_no_ri

@gine_ya 当時はつまるところ人力頼みですので、情報伝達ですら命がけになるのですね。

2016-04-05 18:42:42
アリノリ @a_ri_no_ri

家康がこうも超高速で移動した理由として、秀吉からの書状で急がされたのもあるだろうが、在京中の秀忠を秀次が人質にしようとしたという逸話もあるため、息子たちの身が心配だったのもあるだろう。

2016-04-05 18:47:47
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri このときの家康は実年齢で52歳。石部から伏見まで約40kmを移動したその日のうちに秀吉に会ってもいる。分かってはいたが、タフ。

2016-04-05 18:51:16
アリノリ @a_ri_no_ri

こうも家康が速く動けたのは、榊原康政が先行して手配をしているためのようだ。家康は呼び寄せた康政(←徹夜で走って来てます)を三島で一日待ってから、出立している。それもあって、家康の到着はこの超高速移動より速く噂となって京に届いており、『言継卿記』でそれが確認できる。

2016-04-05 18:57:39
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri 念のため書いておきますが、ホンダムには乗ってません。UMA使用です。

2016-04-05 18:58:54
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri あ、しまった。すみません、間違えました。『言継卿記』ではなく、『言経卿記』です。

2016-04-05 20:51:34
千鶴 @Tdr_moeguti4065

当時の移動日数の話になると、どうして京-高野間が3日もかかるんだ(・・?となるんだけどね(確か113-5kmだったよね)

2016-04-05 16:18:15
アリノリ @a_ri_no_ri

家康の通常というか、どちらかといえばのんびり移動で1日に30~35km。これが標準でむっちゃ頑張れば1日に100kmはいける。となると京都から高野山までは急げば1日半で着くかな。

2016-04-05 19:58:07
アリノリ @a_ri_no_ri

この秀次事件のときの家康の1日100km移動と比べると、秀吉の大返しは別に「大」と強調するほどのものではなくなるのだよな。東海道の方が道は整っていて、人数に差があるとしても、ね。

2016-04-05 20:00:21
アリノリ @a_ri_no_ri

あと、何度も書いているけど、秀次事件は在京がデフォルトだった家康が、ちょうど「不在」のタイミングで起きている。間違いなく、家康がいないときを狙っており、上洛途中の家康に書状で知らせてはいるが、明らかに秀次の死には間に合わない連絡であった。

2016-04-05 20:05:46
アリノリ @a_ri_no_ri

@a_ri_no_ri 同じく「不在」のタイミングだったのが伊達政宗。むちゃくちゃ久しぶりに領国に戻ったのに、彼は直ぐに秀次事件で呼び返されている。(気の毒) おまけに関ヶ原が起きる前まで在京が継続。

2016-04-05 20:11:20
HI @tateita_HI

家康の高速移動の秘密は、『板坂卜斎覚書』に騎馬でも馬の草鞋を替える時はそのまま落伍させ、出立時は数十から百騎いてもその日の宿に到着する際は数騎まで供回りは減ったとある。その日の内に合流出れば良いという考えなのだろう。 この辺の行列維持を無視した点が、高速移動の秘訣かと。

2016-04-05 20:08:26
アリノリ @a_ri_no_ri

書状の日付や書いた場所も実は信用ならないときがある。秀次事件のときの書状の通りに家康が移動したとなると、1日100kmどころではない移動区間ができてしまうのだ…。

2016-04-05 20:49:27
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄2年に徳川勢が割と速めの1日40km以上の移動をしたのは理由がある。長く名護屋に留められた後で、もっと早く帰れる予定(家忠日記)だったのに、秀次が熱海温泉に行って不在、という理由で途中の京で予定外の強制在京があったためだ。このときは、早く帰りたいから速かった。

2016-04-05 21:16:02
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄2年の徳川勢が「やった!帰れる!」と喜びのあまり通常より速く動いたのは前後の事情から明らかになる。実は家康が唯一「乱酒」したのもこの文禄2年の帰国直前。秀次が熱海から戻る知らせが入って、「嬉しい!」といつもより飲んだらしい。

2016-04-06 07:35:41
アリノリ @a_ri_no_ri

脱落者は置いて行くからできる徳川の高速移動手段は、徳川家康が「絶対に脱落しない」という前提があるからこそ成り立つのだというのに気付いて、「52歳でそれをやっちゃう」家康にビビらざるを得ない。

2016-04-06 07:38:37
アリノリ @a_ri_no_ri

ただ、いい年で頑張ったツケは後で来ていて、この文禄4年の後半あたり、家康は寸白に悩まされている。寸白は真田虫と説明されることが多いが、これ、「腰痛」だったのではないか、と思ったり。

2016-04-06 07:50:42
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は文禄4年の正月にも腰痛で針治療を受けている。秀次事件の後、秀忠とお江の結婚もあり、ようやく一息ついた10〜12月に淋病と寸白を煩っている。これ、両方とも腰にクるのだから、色々終わって気が抜けたところに7月の3日で約320km移動のツケがどんと傷めていた腰に出たのかも。

2016-04-06 19:47:36
扶桑委員会 @fussoo_moe

この「人数の差」というのを半ば無視するのはなぁ……単純に一部の人間が到達すればいいだけなら関係ないんだが、到着後場合によっては時間を置かず戦闘しなければならない可能性があるなら組織として崩壊していたらいくら早くても意味ないわけで。

2016-04-05 22:05:00
だよもん(くま @V2ypPq9SqY

行軍最速ってナポ公の記録だっけ?それともクラウディウス・ネロの記録の方が上だっけ?

2016-04-05 22:14:17
扶桑委員会 @fussoo_moe

@V2ypPq9SqY たしかローマ時代のもののほうが上だった気が。それでも一日百キロはなかったような……

2016-04-05 22:21:00
だよもん(くま @V2ypPq9SqY

@fussoo_moe ナポ公のとこは120キロ超えるぞ。クラウディウスネロは下手したら日速130キロ超えるが

2016-04-05 22:23:14
扶桑委員会 @fussoo_moe

中世くらいの軍の行軍速度で一日35キロはかなり早いはず。。それがゆっくり……?供廻りを連れての移動と軍としての機動は別物なのだが……

2016-04-05 22:23:48