渡邊芳之先生ynabe39の「「他者の権利と対立するような権利は悪い権利」「自分の権利はそんな悪いものではない」というのではなく、自分にとってはどんなに自然な権利、どんなに正当な権利であっても他者の権利と対立することはある(必ず対立せざるを得ない)ということを認めないと話は始まらない。」
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「権利の対立以前に権利が守られていないと」というけど、他者の権利と対立しないような権利、他者の自由と対立しないような自由は開闢以来ずっと「守られている」と思う。他者の権利と対立しないなら侵される心配もないんだから。
2013-04-11 06:25:51こういう論もけっきょく「権利というのはすばらしいもの」でなくてはならないから、他人の権利を侵すようなものはもともと権利ではない、他人の自由を侵すようなものはもともと自由ではないという権利無謬論、自由無謬論なのだと思う。
2013-04-11 06:27:56こういう無謬論がかえって権利や自由を小さくするのだというのは今まで縷々述べてきた通りだし、わざわざ守られる必要がある(守らないと侵される可能性がある)のは「他人の権利と対立する権利」「他人の自由と対立する自由」だけなのだと思う。
2013-04-11 06:31:17「他者の権利と対立するような権利は悪い権利」「自分の権利はそんな悪いものではない」というのではなく、自分にとってはどんなに自然な権利、どんなに正当な権利であっても他者の権利と対立することはある(必ず対立せざるを得ない)ということを認めないと話は始まらない。
2013-04-11 06:36:07そもそも自分が生きていることは誰の権利とも対立しないと言えるか。少なくとも私は自分が生きていることについては誰の権利とも対立しないとは言えない。
2013-04-11 06:37:23けっきょく「良い権利」と「悪い権利」を分けて、自分のは良い権利だから守られるべきで、自分と対立するのは悪い権利だから守られなくていい、もともと権利ではないと言おうとしているのではないか。
2013-04-11 06:41:24表現の自由について「論理的にだけ」考えれば性表現規制には反対してヘイトスピーチ規制には賛成するのは「ダブスタ」である。そのダブスタを妥当なものにするのが感情であり価値であり倫理であり「正義」なのだと思う。
2013-04-11 07:37:20性表現はよい(あるいは正しい,あるいは好きな)ものであるから権利と自由を保障すべきで,ヘイトスピーチはわるい(あるいは正しくない,あるいは嫌いな)ものであるから権利や自由が保障されなくてもよい,ということで,この「よい/わるい」は論理より前にあるのだ。
2013-04-11 07:39:00牛や豚の肉は食べていいけど人間の肉は食べてはいけないのも論理的にはダブスタだが,それを妥当にしているのは倫理である。殺人は犯罪だが戦争で敵を殺すのは名誉なのもダブスタだが,これを妥当にしているのは正義である。
2013-04-11 07:43:51むしろ「人が生きていくために肝心なこと」ほどダブスタが価値や倫理や正義によって認められているようにすら見える。そういうことをみないで「それダブスタじゃないすか」みたいに鬼の首を取ったように言うことの薄っぺらさ,というのがずっと気になっていることだ。
2013-04-11 07:46:17こういった倫理や正義を決めるものもそうだし,さっき書いた「生きているだけで他人に迷惑をかけることもあるだろう」というイマジネーションもそうだけど,こういったものを長く支えてきたのが宗教であることは間違いがない。
2013-04-11 07:48:34宗教を殺してしまった社会で何にその根拠を置くのかというのがかなり本質的な問題なのだろうし,私が繰り返し「また宗教の時代が来るで」と言っているのもそういうことだ。
2013-04-11 07:49:32なんだダブスタでいいんだ,よかった。さてそうなると他のダブスタも価値や倫理や正義がくっつけばよくなります。「よい暴力と悪い暴力」「よい体罰と悪い体罰」「よい差別と悪い差別」,こういうの評判が悪いですが自分のダブスタはよくてこれらのダブスタはダメとどうやったら言えるか。
2013-04-11 08:21:43「権利や自由は必ず衝突する」「自分の権利が他人の権利を侵害している」というイマジネーションとキリスト教は深く結びついているし,近代的な権利や自由の概念がキリスト教国で発展したのは偶然ではないと思う。
2013-04-11 08:23:19牽制! RT @kikumaco: それは程度問題 “@ynabe39: 「そんなの程度問題だろ」といって話を打ち切ろうとすることはちゃんと牽制しておかないといけません。”
2013-04-11 08:43:08自分がクリスチャンかどうかは難しいところだけど少なくとも考え方はいたってキリスト教的なんだろうと思う。これは宗教体験などのせいではなくて「学者として訓練を受けること」自体が実質的にキリスト教的な考え方の訓練になっているのではないか。
2013-04-11 08:46:08憲法を簡単に改正できるようにしたら自分の都合の悪い方向にも簡単に改正できるようになるというイマジネーションがないのは不思議。そんなことはありえないと思っているんだろうか。
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