中世フランスの農業の変遷 【中世パン図鑑別冊】

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 ムスリムとの戦いを通してカール・マルテルは騎馬兵の重要さを思い知り、その後王国内での騎馬兵の充実を図ったとする説がある。

 また、「あぶみ」が西ヨーロッパに伝播した事により騎馬兵の普及が図られたとする説もある。

by Ealdgyth CC BY-SA 3.0

 「あぶみ」により馬上で踏ん張る事が出来るため、姿勢が安定し馬の運動エネルギー等を利用しやすくなり戦闘力が飛躍的に向上した。

 一方で馬や装備などコストのかかる騎馬兵は多くの封土を持つ者しか維持できず、封建制の中で騎士身分が形成される契機となった。

封建制の始まり

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 同時期、ゲルマンの従士制度とローマの恩貸地制を組み合わせたレーエン、即ち封建制度が見られた。

 やがてカール大帝が制定した伯や辺境伯の官位もレーエンとみなされるようになり、王が諸侯に官位や封土を与え、公や伯がその下の騎士達に封土を与える多層的な社会関係ネットワークが形勢された。

 与えられた封土はやがて世襲されるようになり、相対的に中央集権的な王権が弱体化していく事になる。

 封建制度は中央権力をふるいにくい反面、自給自足や外敵が多く現場判断で即応しなければならないという当時の状況に合っていた部分も大きい。

tenpurasoba @tenpurasoba4

@tenpurasoba4 中世パン図鑑 黎明の中世 ⑤進む定住化 古典荘園制 領主は安全を条件に農奴を増やし荘園を開いた。農奴には重い労役がある一方で私有財産等があり、奴隷とは違う身分だった。まだ共同体を作る事は無かったが酪農と耕作の混合農法や三年輪作など新しい試みが出てきた。

2014-12-14 17:10:28

領主の指示に従い賦役につく農奴達

 メロヴィング朝期に形成された領主と農民の関係がさらに強化されていき「古典荘園制」と呼ばれるものになった。

 農民には週3日程度領主直轄地で働く賦役が課せられていた。多くは耕作地での作業だったが、領主の都合に合わせて建築、土木、修繕作業から警備、加工品(布、木工品、パン、ビール、ワイン)製造作業など様々な賦役が課された。

農民保有地マンス

森のドングリを棒で落として豚に食べさせる様子

 一方、農民達はマンスと呼ばれる保有地を持っていた。それらは、家の敷地、菜園、耕地で構成され、共有地として放牧地や森などもあった。
 
 このマンスからの収穫も税としてある程度領主に納めねばならなかったが、それ以外は自分の物でありある程度の独立性が確保されていた。

 この時期、荘園とはいえ農民の集住による「村」の形成や領主の館の城塞化はまだほとんど行われてなかった。

tenpurasoba @tenpurasoba4

@tenpurasoba4 中世パン図鑑 黎明の中世 ⑥ゲルマン式とローマ式の合体 畜産と農耕が混在した後、機能的に連動させた。作物を栽培すると窒素等の栄養分が枯渇し回復せねばならない。家畜に犂を引かせたり糞を利用して効率的に回復出来た。やがて更なる工夫がされる。

2014-12-15 21:24:51

 麦の収穫を維持するには、十分な地力を必要とする。家畜の放牧が常態化するまで休耕地の地力の回復は、雑草の繁殖及び地中のミミズなどの益虫に頼らざるを得なかった。

 家畜の導入によって、フンを肥料化してまいたり、犂を引かせて耕したりといった積極的な地力回復や土作りが可能になった。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 黎明の中世 ⑦三年輪作 ローマ式二圃制(土地半分づつ入替え栽培)に代わり三年輪作が領主直営地で行われた。畑を三分割し冬麦、春麦、休耕とし順番を入替えて耕作した。二圃制より作付け面積が三割上がるので徐々に普及した。 pic.twitter.com/XY0QRI72Mk

2015-06-18 23:28:45
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冬麦、春麦

 冬麦とは秋に種をまき冬を越させて夏に収穫する麦で小麦とライ麦、混合麦が作付けされた。
 春麦とは春に種をまいて秋に収穫する麦で大麦や燕麦が作付けされた。

by David Jackson CC BY-SA 3.0

三年輪作と二圃制

 二圃制と三年輪作の作付けサイクルは以下のようになる。
 二圃制は土地を2つに分割(A,B)し、三年輪作は3つに分割(A,B,C)し、それぞれいずれかを休耕地にする事で地力の回復をさせる。

二圃制 作付け面積 50%


 年月 1年目 2年目
耕地A  麦  休耕地
耕地B 休耕地  麦


三年輪作 作付け面積 66%


 年月 1年目 2年目 3年目 
耕地A 休耕地 冬麦  春麦  
耕地B 春麦  休耕地 冬麦
耕地C 冬麦  春麦  休耕地


 面積比率では、66%/50%=1.3となり、つまり3年輪作の方が二圃制より麦の総作付面積が3割上がる事になる。
 
 尚、三圃制は、3年輪作を小作人も含めて全ての耕作地に適用する農法であり、それには共同体すなわち「村」を必要とした。この時期「村」と呼べるものはまだ見られなかった。従って三圃制と呼べる農法もまだ取られていなかったと考えられる。

三年輪作の普及具合

 メロヴィング朝の間は、三年輪作は北フランクの一部を中心とした周辺地域にのみしか普及せず、南フランクでは二圃制が続けられた。

tenpurasoba @tenpurasoba4

中世パン図鑑 黎明の中世 ⑧ブドウ栽培と水車 イギリスでも栽培が出来る程温暖な時代、ブドウとワインは盛んに栽培された。道具より人手が必要なので生産量を上げ易かった。また一時衰退した水車もこの時期から利用率が増え各地に建造された。 pic.twitter.com/f1oJWH2s9v

2014-12-16 23:12:01
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by Rosenzweig CC BY-SA 3.0

大桶で圧搾しブドウ果汁を絞る様子

中世温暖期とブドウ栽培

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